D&D系のRPGに見るアラインメントの区分の再編成 : オウガバトルをきっかけに

CRPG関連

バルダーズゲートなどのダンジョンズ&ドラゴンズのルールを採用したPCゲームに於いて、キャラクタの性格を決定づける特性として用いられる要素の一つに、「アラインメント」と呼ばれるものがあります。ここではそのアラインメントに関して私個人の見解を述べさせて頂くとともに、アラインメント要素を用いないゲームも含めた、RPG全般のクエストの構造とアラインメントの係わりについても言及します。

国内の家庭用ゲームでも、『伝説のオウガバトル』シリーズなどでは簡素な形でロウ、ニュートラル、カオスと云った特徴付けがキャラクタに対し用いられていますが、例えばバルダーズゲートの採用する世界観としてのフォーゴトン・レルムに於いてはさらに細かい区分があって、世界の権力構造に対する嗜好性としてのロウ、ニュートラル、カオスと云った区分の他に、個人の行動の規範と善悪の選択の頻度を現すグッド、ニュートラル、イービルという三つの区分が連なり、前者の三様と後者の三様を掛け合わせた九つの区分からキャラクタの性格が決定付けられています。

ここまででお分かりのように、この「アラインメント」の区分は、それこそ各RPG世界のそれぞれに於いて恣意的なものであり、製作者側の意図する世界の構造に合わせ、いかような単純さにも、そして複雑さにも、裁量一つで自由に対応され、区分されることが可能です。

しかしながら、いくら狂気染みた世界観を構築するのに長けた世のマイナーなCRPG製作者たちと謂えども、善悪の区分の基準となる行動・思考や世界を覆う権力の構造の型の創造を全く無際限に行うことはできませんから、ある程度の、善悪の基準や権力構造の型の「基準」を、分析的に取りだすことは一方で可能であるとも思われます。

というわけですので、一般的なRPGユーザーの方からすると一見無関係に思われるかもしれないアラインメントの区分と、善悪、及び権力の諸関係の決定づけられた世界観の中でのクエストの構造を、敢えて同時に語らせていただきたい、というのが、筆者のこの項の中での主意でございます。

さて、私自身の知るなかで最も「厳密な」アラインメントの区分の用いられている『フォーゴトン・レルム』を再び例にとると、そこで個人の善悪の基準として設けられた三種の区分と、権力の構造の嗜好性として示された三種の区分は、実は、各々が独立して明示され、三種同士掛けあわされて新たな九つの性格付けをキャラクタに対し与えるものでは無く、権力構造への嗜好性と、権力に対する個人の行動(善悪の選択)による訴求性をそれぞれの三種の区分に於いて示した、むしろ同一の平面上で並置されるべき諸特徴だということが分かります(なぜなら、権力の構造への嗜好性なくして善悪の基準などあり得ないのですし、同様に、事物に対する善悪の判断もできない人間が、権力の好ましい構造を思い描くことなど出来るはずもないからです)。

もう少し積極的に云えば、ロウ、ニュートラル、カオスと云った区分と、グッド、ニュートラル、イービルと云った区分は、それぞれの特性同士平行した関係にある、ということです。あくまで個人的な見解なのですが、そもそも秩序・均衡・混沌と善・中庸・悪の各々の三つの区分は、前者が、行使する権力を保持した(もしくは権力の行使を非権力者が仮定した)際の人間の採る立場の言い換えであり、後者は、権力を持たない者が、権力者による権力の行使に抗いながら(もしくは従いながら)、権力の方向性を歪ませるべく採用する態度の総体的な方向性のことだとわたしには思われます。

つまり、そう考えますと、ローフルグッドとローフルニュートラルの違い、及びニュートラルグッドとトゥルーニュートラルの違い、そしてニュートラルイービルとカオティックイービルの違いがいまいちよく分からない、というバルダーズ・ゲートシリーズのプレイヤーにとってありがちな嘆きは、ニュートラル、という態度決定が、権力行使者にとっては権力の是認と同じことであり、そして非権力者にとっても、同様に権力の容認に等しいことに起因するもの、と理解できます。

そこで私が推奨したいのは、ローフルグッドとローフルニュートラルを統合して「ロウ」とし、ローフルイービルを「イービル」、ニュートラルグッドを「ニュートラル」、トゥルーニュートラルを省き、ニュートラルイービルをもう一つの「ニュートラル」の極とし、カオティックグッドを「グッド」、カオティックニュートラルを「カオス」として、六つの並置された区分に九つのアラインメントの区分を整理し直すことです。

↓参照図

そうしますと、権力を行使する側の秩序の維持の為の「ロウ」と、権力を保持していながら、それを悪用しようとする「イービル」、両者による権力の行使を、非権力者の反乱を生み出さない程度に制限し、均衡を保とうとするニュートラルイービルの方の「ニュートラル」が、権力者の側の一つの二等辺三角形を形作ることがお分かり頂けると思います。

一方で、権力の不必要な行使と濫用を初めから拒否しようとする「カオス」と、実際の権力による秩序維持は拒否するけれども、予め権力の側で規範とされた善と悪の価値観の内で善に当たるものは積極的に広めていこうと意志する「グッド」、そして、善の価値観の受容にやぶさかではないけれども、常にそれが「ロウ」の側の行使するような権力の押し付けにならぬよう警戒する必要があると主張するニュートラルグッドの側の「ニュートラル」が、権力に縛られるのを嫌う民衆の側の等辺三角形を形作ります。

ですから、(あくまで私の主観と繰り返し述べさせていただきますが)一見権力への嗜好性と個人の価値観の偏りによって自由に相互を組み合わせることが可能であるように対置される秩序・均衡・混沌、善・中庸・悪という三つずつの区分は、個人による選択の極めて制限された、権力者と民衆の立場の相違を示す二つの等辺三角形の並置の中の揺れ幅にすぎないということになります。勿論、その幅はキャラクタの性格を特徴づける上で決定的なものです。

ここで、わたし自身の定置した六つのアラインメントの区分に一つ考察を付け加えさせていただきますと、一般的に対置される「ロウ」と「カオス」、「グッド」と「イービル」という特性は、キャラクタが自身で自身の特徴を選び出そうとする限り、対局に位置する頂点では無いという点です。

つまり、「イービル」という特性によって代表される邪悪なものは、権力の側の特徴を選び取った者によってしか齎されない意図的な人間理性への挑戦ということになります(なぜなら権力を持たない者による悪の押し付けは、他の同程度の力を持つ者によってすぐに撲滅されるからです)。

同様に「グッド」の特性によって代表される善良なものは、非権力者の側によってしか表現され得ないということになります(なぜなら権力の側に立つ者による善良なものの流布は、そのまま秩序の維持の為の善の価値観の反省なき強制に繋がるからです)。

逆に云えば、そもそも善良なものと邪悪なものを価値観として区別する根拠というのは、(ひとまずわたしの図式に於いては)衆愚的な、力に寄り添い、力に従属する者によってのみ実現されうる可能性の顕在化の有無ということになります。

そこで秩序(ロウ)とは何かと云うと、衆愚的でありながら、一部の権力者が、他の衆愚的な傾向に陥り勝ちな大衆を利用し、継続して、何らかの形で搾取をし、自分たちに有利になるような価値観を押し付けていく仕組みの支持ということになります。そう考えますと、必然的に、「ロウ」の頂点の属する等辺三角形は、「イービル」の特性によってしか基礎づけられないのです。

他方、「グッド」の特性は、善良なものの流布を為し得るだけの権力をその特性の保持者が持たないという意味で、常にカオティックな特徴を孕まざるを得ないという傾向があります(なぜなら、善の流布を何らかの形で施行するだけの権力の保持者による善は必然的に「ロウ」の特性に回収されるので、集団的で、一般的な善とは別の、個別の善さを主張する場合にしか「グッド」は姿を現さないからです)。

同様に、わたしが「カオス」の頂点として定置したカオティックニュートラルの特性は、善良さも邪悪さも必要とせず、ただ秩序を強制してくる権力に対してのみ「自由」を主張しますが、その態度は必然的に、何らかの個別の、他の大多数によっては共有され得ない価値観を指示し、であるが故に、権力の行使の適切な頻度を模索した「イービル」の特性とは対立的な、個別の価値観の多様性の保持の為の「グッド」の価値観を呼び寄せることになります。

では「グッド」と「カオス」の相違とは何かと云うと、前者が個々の人物の主観性の保持という視点から、多数への従属を要請する権力の否定に流れ込んで行くのに対し、後者は、まず初めに既存の権力に対する不満があって、価値観の維持よりも法的な規制への反発によって返って個別の価値観の主張する「善さ」の肯定に結び付いていくという、経過による隔たりがあります。

ということですので、「カオス」の特性を、既存のカオティックニュートラルに当たるものとしてわたしが定置しましたのは、必ずしも「カオス」が「善い」価値観を追い求めるわけではなく、むしろ強大な権力への従属を嫌うあまり、新たな個別で分割された権力を作り、そうして結成された組織が、場合によっては「イービル」(集団による権力の行使)に転じる可能性のある新たな権力を生み出すという事態もありうると考えるからです。

少し逆説的になるかもしれませんが、では「カオス」という特性とは何かと云うと、それは常に集団的な権力の行使を否定する態度です。つまり「カオス」を嗜好する者たちは、
常に絶対的で強大な権力を忌避し、相対的で拮抗した幾つかの権力が乱立した情勢を好んでいるのです。

「グッド」の特性を持つ人間はこれとは異なり、権力や政治情勢への興味よりも、端的に、個々の人間の主観的な信条が保持されることを望みます。両者ともに権力を持たぬ者にとって必然的な権力への拒否反応を内に秘めていることは云うまでもありませんが、ここで注意しなければならないのは、権力を巡る個人の立場は、時と場合によって大きく変更される可能性があるということです。

それはCRPGに於いては、物語の重要な分岐点として現れます。作中の個別のアラインメントを持つキャラクタ(場合によってはあなた自身)が、個人の力能によってはコントロールできないような事態に立ち会った時に、自身の価値決定のプロセスを大きく変更するという「事件」は、決して珍しいものではありません。そこで新たに着目するべき点として、世界を覆う権力の流動性と変異を指し示す、「ニュートラル」という特性の両義性が浮かび上がってきます。

前述しましたように、権力を持たぬ者が権力を保持していない時に意志していた自身の特性としてのアラインメントは、「カオティック」な諸勢力に属し、任せられた役割の変じていく度、もしくは諸勢力の世界に於ける立ち位置が移り変わる度、常にカオティックニュートラルからローフルイービルへ、カオティックグッドからローフルグッドへ、行使する権力の増大に伴って、それぞれ変更されることがあり得ます。

と云いますのも、初めに与えられた境遇を肯定するように権力を持たぬ立場から権力を否定することは容易くとも、権力を預かる立場から、改めて過去の自分の属していた権力を持たざる者の立場を肯定することは難しいからです。

「ニュートラル」という私の定置しました二つの同名の特性(ニュートラルグッドとニュートラルイービル)は、ある意味でそう云った権力関係に沿った個人の態度決定の揺らぎを端的に表しているとも云えます。一つ付言したいのは、私のおき直した二つの等辺三角形の六つの頂点としてのアラインメントに於いては、一般的にはローフルの自然な受容と受け止められるグッドの特性と、カオティックの自然な表現と受け止められるイービルの特性は、それぞれの対応関係を逆転させられているということです。

なぜなら衆愚的な権力の維持の内面化こそがイービルと呼ばれる特性の特徴であり、「ローフルイービル」という分類はほとんど同語反復に等しいからです。また、一般的、共同体的な価値観の強制に対する個人の判断力の維持、多様性を確保するための単独性の主張こそが「グッド」と呼ばれる特性の本質であり、必然的にそれは「カオティック」でなければならない。

そう云った意味で、内面化の過程としてのグッドとイービルだけを取り出し、権力に対する肯定的な態度と否定的な態度をそれぞれに定置した二つのニュートラルの頂点は、尤も適切に目の前の事物や環境に対する判断力の、人物個々の想像性の相違を現していると云えます。物事は「良い」仕方によってか「悪い」仕方によってしか存在しえないのです。

そこで「良い」とは、差異を捨象した権力の側の総合的な判断を拒否する為の多様性の積極的な受容のことであり、「悪い」とは事象のうちに見出させる諸特徴への判断力の従属を、権力の強制性によって実現しようとする諸個人に共有された意志のことです。「ニュートラル」という権力の諸関係からは比較的自由なそれぞれのCRPG世界の住人の価値観の内で、それぞれの特性は瞬時に受容される仕方と表現される仕方を変えるでしょう。それは、他のアラインメントに属する諸個人も含めた、世界そのものの権力情勢の揺れ動く態、そのものの振動なのです。

では最後に、ローフルグッドがイービルの側の等辺三角形の頂点として定置され、そして、カオティックイービルが跡形もなく省かれているという、私の図式の稚拙さについて弁明してこの項の結びにしたいと思います。

「ロウ」の特性を疑いなく他者に強制できる人間というのは、実は、カオティックグッドからの転向組なのです。自分たちが少数派として虐げられていたという共通の記憶を保有すればこそ、それを、結果的に多数派の側の権力を掌握し、今度は新たな「少数派」と化した人々に迷いなく適用していくという反転した「グッド」が浮かび上がります。

逆に、ローフルイービル、もしくはニュートラルイービルに統合されてしまったかに見えるカオティックイービルは、イービルという特性が、権力の保持なしでは断続的にしか施行され得ないことを指し示しています。

大抵の場合、カオティックイービルと聞いて我々が思い浮かべるのは、魔族や、一部の凶悪な非人間種の集団でありますが、彼らはむしろ、組織だって邪悪さを波及させようと試みる点で「ローフル」なのです。断続的な、本物の混沌を世に齎そうとして暗躍する個人は、権力の側と自身の死を厭わずに戦って凶悪な事態を招いて死滅するか、逃走し、生き延びるうちにやがて牙を抜かれ邪悪さを失ってどこかに隠れ住むしかありません。

要するに、カオティックイービルという特性はごく短期間のうちにしか顕れえないのです。ここまでで、ローフルという特性が時間が経過するたびに表れ出てくる権力の流動性を示唆すると同時に、カオティックという特性がその権力間の闘争による権力の統合を嫌う、或る意味で短期的なものであることがお分かり頂けると思います。

それは、ロウ、ニュートラル(ニュートラルイービル)、イービル、と、カオス、ニュートラル(ニュートラルグッド)、グッドという三つの頂点をそれぞれ持つ二つの等辺三角形の平行性としてアラインメントを理解しようとする私の図式の根拠にもなり得ると思います。

つまり、少し論理を飛躍させて云えば、空間概念と時間概念がアラインメントという特性によって形を変えて表現されているのです(真顔)。

クエスト構造とゲームジャンルの関連について に続く。

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