鬼畜王ランスからランス10について考える:運命の女などのWiki内項目、攻略の相違

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才能限界とは、何だったのか。魔人同士なら、無敵結界破れるはずだったんじゃ? 運命の女の設定が、ランス8以降の展開に偏りすぎていないか。エターナルヒーローが、今回いまいち活躍していない。などなど、この記事はランスシリーズを愛して止まない一人の人間の、勝手な感想、及び妄想です。一方的に、敢えて批判的な内容を書き連ねておりますので、ご理解のある方のみ先へお進み下さい。

(ランス10、鬼畜王を中心にランス6や8,戦国ランスに対する幾つかのネタバレも含みます。また、ランス10のVerは1.01で主にプレイしてましたので、今後のアップデート後の仕様変更、公式の発表などは考慮しておりません。あと、ランス10単体に関しては別記事で論じています)

ランス10 七周攻略を終えてからの解説と感想(黄金像とラ・バスワルドはどこ……)
神ゲーとクソゲーは紙一重、とはよく言われることですが、自分にとってはRANCE10ほどこの格言にふさわしい作品はありませんでした。以下は主にシステム面への批評になりますが、記事の後...

1 才能限界という設定の空疎化

というわけで、この項の基本的な方針としては、上記、才能限界のような、ALICE SOFT様自体がランス・ワールドノートにおいて掲げられているのにもかかわらず、ランス10においていまいち生かされていない設定を取り上げていこう、ということです。

ランス10を既にプレイ済みの方にはお分かりのように、この才能限界という設定は、今回ほとんど意味を為してないですよね。ランス10では、そもそもレベルの代わりにランク、というレベルと全く同じ扱いの数値が、経験点を積み上げる指標となっていますから。

この点はやっぱり致命的、ですね。要は、ランスシリーズとして課していた設定を、自ら放棄している、と言える。勿論、2章の段になってストーリー上の展開に「才能限界」の要素は盛り込まれていますが、それがゲームシステム上の制約になってはいない。

ただ、この才能限界という設定、よくよく考えたら鬼畜王の頃はまだゲーム内システムで生かされている、とは言い難いですね。鬼畜王の設定資料集などを見れば、数値としては定められているけれども、その数値が実際にシステム内でも生かされるようになるのは、ランス6から、ということになるでしょう。

ランス6においては、この「才能限界」は、そっくりそのまま、RPG上のレベル上限、として提示されていた。で、猿玉の使用で展開される各キャラとのイベントを見ることにより、才能限界が低くレベル上限に達してしまった仲間は、ランスと交わり、その才能限界自体を引き上げてもらうことが可能だった。

ランス8においても、同様の仕組みはありましたよね。8の場合は、一度レベルそのものをリセットして、レベル1時のステータスの既定値を底上げしながら再度、レベルを上げ直すことで、延々とキャラの育成を図ることが出来た。(まあそれ自体はかなりマゾい仕様ではありますが……)

地域制圧型の戦国ランスでも、個人のレベル、及び才能限界は主に地下のダンジョン攻略のときに重要な値として設定されていて、そこでグナガン、などを倒さなければならないために、地上戦の人員構成まで逆算して考えなければならなかった。(家康とか沖田、折女他の妖怪勢が重宝するのはこの為ね…)

で、ランス9は自分はクリアまで行けなかったんでWikiで確認した所(すいません)、熟練ポイント、って、やっぱり9の時点で既にこの才能限界、っつう設定はシステム内での活用を放棄させられていたんですね。

これは非常に悲しい。レベルとか存在しないポイント制、その後の10においてもランク制、要は、物語上の設定として才能限界、という値は保持されているけれども、ゲーム内のシステムとして、それを育成要素の規定として活かすことはしない。

一体、何故こうなったのか。と問うのは、筆者がランスシリーズの一つの特徴として、「物語上の世界設定そのものが、ゲーム内のシステムとして楽しめるように生かされている」、という点にあると、かねてから考えていたからです。

うるせえな、Alicesoftがそう作ったからそうなっただけなんだよ、と言われればそれまでなんですが、ただ、やはりそもそもそのALICE SOFT様自体がランスワールドノートの中で規定しているルール自体を、進んでゲームシステム内で放棄する、というのは、やはり制作過程でのランスシリーズの捉え方自体が変わったんだろうな、と類推せざるを得ませんでした。

その辺りの感覚を具体的に説明すると、たとえば、上記、戦国ランスの中で云えばウルザなどは、才能限界が高くて、非常に重宝するキャラなんですよね。

で、そのシステム内の規定が、ヒロインキャラであるランス6内のストーリー展開とも相まって、すげー努力家の優等生、且つ底知れない潜在能力を人類の中では持っている、というようなイメージを、私個人としては脳内で保管しながらプレイすることが出来ました。

要は世界設定=ゲームシステム、だったんですよね。その双方を、プレイヤーは自身のプレイ感覚と想像力で自由に行き来することができた。当然、ゲームの主人公であるランス君に対しても、その才能限界自体が無いってとんでもねえ奴だな!と、ゲーム内でのレベル上げに勤しみながら、プレイヤーとしての私は設定を自然に理解できていたわけです。

この特徴こそ、ランスシリーズのナンバリングタイトルの保持し続けていたものではなかったか、と筆者は考えます。他の、数多の大河的なファンタジーシリーズとランス、というタイトルを隔てていたのは、単なるストーリー上の続き、としてではなく、システムの継承をも伴った世界設定そのものの連続性、という特徴を、深め続けてきたからではなかったのか。

繰り返しになりますが、この「神話上の構造の放棄」こそが、ランス10の最大の欠点である、と筆者は考えております。以下には、さらに偏った視点も含まれますので、その点を承知していただける方のみ先にお進み頂けると幸いです。

2 無敵結界のルール変更

あれ? そもそも健太郎は日光を持ってるんですけど……。って、思いませんでしたか?つーか、神魔枠にアイテムとしての日光が入ったのにダメージ入らねえし、というより何で人間形態の日光が魔人にダメージ与えられないんスか。

いや、本当、自己矛盾ですよね。エターナルヒーローとは何だったのか。魔人、及び魔王をどうしても殺したいと願ったがために、刀、及び剣の形で自己の体を具現化したのではなかったか。

勿論、物語の主人公たるランス君の枠でまずは無敵結界破りましょう、(そうしないと主人公枠自体が陳腐化しかねない)というのは分かるんですが、その仕様を遵守するために、上に述べたようなエターナルヒーロー関連、魔人関連の設定まで変更されかねない状態にするっていうのは、正直、理解に苦しむ所ではあります。

まあこの辺りは、設定上の変更というより、ゲームシステム内の事情により致し方なく、と言った所でしょう。無敵結界を破るのにカオス、というアイテムによる規定を利用したために、もし他の、日光とか魔人たちにも設定を適用しようとすると、その他枠、神魔枠全体を無敵結界解除のために有効化しなくてはならず、それだと使徒、とか聖女の子モンスターとかもいる手前、上手く調整できない。であるが故の苦肉の策として、日光、魔人に関しては無敵結界関連の仕様を適用しない、というシステムを採ることになった。(↑上記は推測です)

つまり、何にしても確かなのは、ランス10においては無敵結界という設定はフレーバーテキスト化してしまった、ということです。確かランス7やランス8では、予めカオスが磁力のようなもので無敵結界を無効化するから、使い手が所持してさえいればパーティーメンバー全員が攻撃可能、というような設定だったと思うのですが、これはこれで理解できる仕様だと思います。

他方、ランス10では行動として一度無敵結界を破るための一撃を加えなければならない、というルールがあるのにも拘らず、そのルールに対して本質的な役割を果たすはずの、日光、魔人同士、という存在は進んで価値を脱落させられている。

1.の才能限界の項と同様に、この点についてもそう設定されているんだからそうなんだよ、と云われればそうなんですが、一つ、ランス10のストーリー展開にとっても都合が悪いのは、ケイブリスが他の魔人を消滅させる下りが出てくることです。

もし、神魔枠であるサテラやレイなどの攻撃が無敵結界を破れないというシステム上の設定が世界設定上の変更をも含んでいるとするなら、ケイブリスがホーネットを消滅させられるのは自己矛盾だからです。

いや、この点に関しても、めちゃくちゃ体力弱まってたから無敵結界すら張れなかった、とか、いくらでも弁明可能な部分ではあると思うんですが、ともかく、世界設定の理解とゲームシステムがパラレルであること、によって生じるプレイヤー側の快、は失われてしまっている。

まあそんな細かいことをいちいち指摘する俺自体の方がウザい、のは百も承知しているところなんですが、もう一つ、この無敵結界の件についても具体例を示すために、たとえば、鬼畜王ランスを例に取ります(外伝ですけどね)。

鬼畜王では確か、JAPANに織田信長っていうのがいたんですが(笑)、この信長が魔人だということに、私はこの鬼畜王が初めてのランスシリーズだということもあり、全く気付かなかった。で、当初はリックとレイラさんがコンビで攻めてんのにダメージ入んないのは、戦闘域とかが関係してんのかと思っていたんですが、まあ数ターンしてから気付くんですよね、……こいつ魔人か! って。

いや、今はWikiとかあるんで幾らでも初めに見る人は見るんでしょうけど、やっぱりランスシリーズっていうのは、逆に言えば初見の段階でもプレイしていくごとに、自然とシステムを理解できるようになっている、っていうのが個人的な体験としてあります。ですんで、もしランス10をランスシリーズで初めにやった人がいたとして、「あ、日光なら無敵結界を破れるはずだ!」ってごく自然な思い付きをしたのに「あれ、ダメージ入んねえのか……」って落胆するとしたら、非常に残念なことだと思うんですよね。いや、そこは入れさせてくださいよ、と。まあ、具体的に云えば、サイゼル・ハウゼル戦とか苦労したわけです。

3 運命の女

この3項目めについては、何で~は入ってないの、(入ってるの)って言ってったらマジで切りがないと思うんですが、私がここで申し上げたいのは、ランス6で始めて提唱されたこの「運命」の概念が、ランス9を経て、ランス10に至るまでの間に、何を意味するかが全く変わってしまった、ように見えることですね。

結論から先にいうと、これ、ランス10においてはほとんど第二章の展開に直接結び付けられてますよね。チルディ、千、てる当たりは数合わせか、ってくらいに。

要は運命の女=出産なわけです。宝箱から急にてるさんの運命の女カードが出てきた時は流石に面食らったんですが、それは私が第二章以降の展開を理解していないせいでもありました。もう、そうなると自然発生的にシーラ、ミラクル、五十六、リア、フェリス、パステル、マジックも入ってくる。

「ひつじ小屋別館」様では、運命の女の項目内で、コメント者の方々のそれぞれが、13人以外の後の7人は、を予想されていたり、いや、そこはプレイヤーそれぞれの想像に任せるべきだ、という意見を述べていたり、ランス10のストーリーを認める限り、各々の意見の中に全く妥当性のある議論が展開されていると思います。

そこにある意見は、本当にランスをやりこんだ方々の示唆に富む指摘が満載だし、私自身ほとんど異論はないんですが、やはり一つ指摘しておきたいのは、この出産=運命、という規定は、初めに運命の女、という概念そのものの提示されたランス6の段階からすると、ほとんど無関係な別物、と考えられるほどに、規定自体、指し示す意味自体を変容させられてしまっているように見える、ということです。

いや、そんな事は分かっているよ、ただ「正史」であるランス9,10の中でそう規定されているのだから、受け入れるしか無いだろ、と云われればそれで終わりなんですが、それでもこの点には、上記、才能限界の項と無敵結界の項と同様の、ランスシリーズ全体が持っていた特徴からのズレ、が潜んでいると思うんですよね。だから、単なる個人的な思い入れや趣味の問題として、~が入ってないとかおかしいだろ! と指摘したいわけではないのです。

ちょっと回りくどくなったんでこちらも結論から言うと、ランス6で初めに提起された「運命の女」という概念は、(表立って明らかになるのはシィル、かなみ、志津香だけ、ですか)出産とは関係なく、ランスシリーズに登場する「お決まりの人物」みたいな扱いだったと思うんです。

ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんや出来杉君のいないドラえもんが想像不可能なように、こいつらがいなくちゃ始まらねえよな、っていういつものメンバー。もっと云えば、そこにこのナンバリングタイトルと云えば、この人、っていう、いわゆるヒロインキャラを含めた分が、ランス、という物語を語る上でのストーリーの全体像、このシリーズはこの人達の話です、っていうのを提示するために概念化されたもんだと思った。

だから、ウルザやリズナをまだ提示されていないだけで残りの七人には含まれている、
と考えるファンの方の意見は正しいと思うし、他方で、おいマリアが入ってないとか正気か!? とも思うわけです。(まあ、ダークランスとの件とか色々あったんでしょうが……)

尤も、そこの部分の調整は本当にALICE SOFT様の一存による他ないことも重々承知しております。ただ、ランス6の時点での運命の女、の概念を念頭に置いてランス10をプレイした場合、若干面食らう所は間違いなくあると思う。その上で、ランス9の時点でチルディ、千、ミラクルが組み込まれている点などから推測するに、出産自体が第二章の展開に直結する、というランス10の構想自体は、これ、ランス9の時点で既に大枠は組み上げられていたんでしょうね。

と、そのことの是非をここで問うつもりはないんです。が、何にしても、シリーズを上からやってきた人であればあるほど、「いくら何でも運命の女のキャラ選定が後半のシリーズに偏りすぎだろう」と感じると思う。

なぜなら、前述したように、このランスというシリーズは、ナンバリングを重ねても普遍な一定の世界設定、に支えられている、というのが最大の特徴なわけで、そう考えると、7以降、8以降、9以降のキャラクタが「運命の女」の半数以上を占める構成というのは、あまりにいびつと言わざるを得ない。

つまり、何が言いたいかと言うと、ランス6の時点でシィルとかなみと志津香が運命の女、と判明した時は、「おお、そうだったのか!」っつう感じで、それこそランス1からの冒険のうちに登場した人物との「運命」を、ナンバリングタイトル自体を遊んだ記憶を遡りながら感じることが出来たわけだけれども、
一方で、
ランス9,10で提示される「運命」というのは、せいぜい8~10のナンバリングの中にしか構成されていない、「あ、第二章を描くために無理やり結びつけたんだろうな」、という推測を助長するような、取って付けた感満載の設定になってしまっている、ということです。(↑繰り返しになりますが、すべて私の主観です)

主観ついでにもう一つ言うと、20人(いるとしてね)は流石に多い、と思う(笑)。やっぱり、上記ランス6時点での概念として提示した、ああ、こいつらこいつら、っていう感覚と、各タイトルのヒロインキャラ、っていうことで言うと、

シィル、かなみ、志津香、マジック、リア、
リズナ、ウルザ、香、パステル、シーラ

でいいでしょう、と個人的には思います。マリアが敢えて入ってない、っていうのは逆にそれはそれでいい、とも思えるし、他方、香の所が五十六か謙信でもいい。正直、チルディ、千、ミラクル、フェリス、てるっていうのはさっぱり分からん。6から二人入っているように見えるのが不都合なようであれば、マジックのところにマリアでも、もしくはサテラでもいいでしょう。

ただ、マリアに関して何でこんな両義的に書くかって言うと、(他のプレイヤーの方も思い入れのあるキャラだとは思いますが)、ランス6時点での一つのイベントシーンが思い浮かぶ、からですね。運命の女の設定が明らかになってから、だったか、志津香とのイベントを見た後から、だったか、「俺様の女たちが仲良くするのはいいことだ」というランスの台詞を思い返しながら二人で空を見上げたあの日だまり、の時点では、マリア本人も自分自身を運命の女だと信じて疑わないような口振りだったんですけどね。だからこそ寂しいとも言えるし、今思い返すと切ない、とも言える。

って感じで各キャラについてどうの、と言っていくと切りが無くなるんでこの辺にしときますが、ともかく、一つだけ言いたいのは、この、運命の女の概念設定のランス10第二章に向けた変更、という事態の中には、他の、才能限界の空疎化、無敵結界のルール変更と同様の、ランスシリーズがシステム上本来保持していたもののストーリー上の欠落、が見受けられる、ということです。

それは、上にも述べたとおり、「定型的なキャラクタがランスとの関係を何度も演じ直す」という要素ですね。運命の女という概念設定の「出産」に合わせた改変は、そもそもランス6において提示された上記「定型」の要素を完全に捨象してしまった。

尤も、この事態はランス8当たりから予め予想されていたことではありました。というのも、ランス8においては志津香がランス10と同様にぽこっ、とイベントなしに、アイテムのように出てくるんですね。要は、(これはランス10全般に関する批評でも書いたんですが)ストーリー上のキャラの扱いと、システム上、カードとして、ユニットとして扱うキャラクタの設定の間に、乖離が生じてしまっている。

繰り返し懐かしむようで申し訳ないんですが、ランス6においてはこんなことはなかった。ランス一行と、マリア、志津香がゼスの博物館でばったりと出くわす様が、きちんとイベントシーンとして登場する。かなみも同様で、忍者のくせに牢獄に囚われている、というへっぽこぶりがお約束として初めに提示されている。これが、各ナンバリングタイトル上で繰り返されることこそが、「運命の女」の定義ではなかったのか。少なくともプレイヤーがランス6を遊んだときにはそう思っていたはずです。

そう考えると、このキャラ設定を過去の作品の中に忠実に遡らない、という事態は、何もこの運命の女、設定に限った話ではないんですね。個人的にそう思ったのは、これも何度も批判するようで申し訳ないんですが、ランス9においてですね。はっきり言って、ランスにデレるかなみとかありえないし、ナギの件で内心ランスに感謝している志津香、というのも志津香らしくない。それはほとんど(わたしにとっては)才能限界のあるランス、という位の自己矛盾に近い。なんつーか、みんなマリア化してくんですよね。だから、マリアはランス10において運命の女、として提示された女たち以上に、ランスと運命的に結び合わされているとも言える(笑)。

これらの点に関して具体的なテクストを例示すると、たとえばランス10では、「心臓がバクバクと早鐘を打ち」という表現がランスと対峙するサテラのものとしてあると思うんですけれども、この「胸が早鐘を打つ」という表現は、戦国ランスでは謙信がランスと対峙するときの定型としてあったんですよね。ですんで、何か謙信以外のキャラには使ってほしくない、という思いがある。

いや、本当、戦国をやったことある人には分かって頂けると思うんですけれども、この表現は謙信を象徴するような純朴さに満ち溢れていると思うんです。これは個人的な思い入れと言うより、再三申し上げるようではありますが、キャラ設定の定型化、そしてそれを各タイトル中で描き分け、何度も反復する、というランスシリーズの特徴からは、逸れてしまっていると思う。

で、そうした事例を象徴する事態が、「運命の女」設定の改変だと思うわけです。さらに個人的な思い入れも込めて言うと、この「運命の女」の概念の提示されるランス6に対する扱いと、次の戦国ランスの中のキャラの重要度の序列の改変は、若干度が過ぎていると思いますね。

↓以下数行、ランス6、戦国ランスに対するネタバレを含みます
……………………………
具体的には、ランス10の設定資料集の魔人の項目の中に、XXXX・XXXXが含まれていること、ですね。(やっぱり念の為伏せ字にしました)ネタバレあり、と資料集の冒頭に記載はあるんですけれども、それにしても盛大すぎやしませんかね。ほとんどランス6のストーリーそのまんまむき出し、と言った感じです。まあ余り書くと私自身さらに傷を広げかねないんでこの辺にしときますが、さらに云えば、五十六と謙信に対する扱いも、戦国ランス上でルート設定した、ある種のヒロインキャラであるのにも係わらず、千やてるの方が運命の女、っていうのも、勿論キャラ設定の位相の改変は自由だけれども、それにしても自社で作った過去作品のイメージを蔑ろにしてはいませんかね。
……………………………

と、若干強めに書いたんですが、何故この点の思い入れを強調して言うかというと、ランス10の総論の方でも書いたんですが、やっぱり外伝とは云え実質5に当たる鬼畜王、そして6,7までの作品と、8,9,10というのはライターの方が変わっているんですね。だから、(私個人の勝手な推測ですが)鬼畜王、6,7までのキャラクタ、設定を、8.9.10に再度読み込み直す時、やはりヨイドレ・ドラゴンさんを中心としたスタッフの皆様の中で、「新たな」ランスシリーズ像への翻訳、の過程があったと思うんです。

で、私がここまで才能限界、無敵結界、運命の女の設定について、ランスシリーズの本質からの乖離を指摘したこと、つまり、「世界設定とゲームシステムがパラレルである」こと、などは、その翻訳の実質的な過程の中で、大して重要ではない要素として、捨象されてしまったのだと思う。

それらの翻訳と再解釈の具体的な証拠こそが、繰り返しになりますが、才能限界、無敵結界、運命の女、などの、(一見するとシステム上で役立っていないように見える)世界設定のフレーバーテキスト化、なのです。勿論、「いや、お前は鬼畜王、6,7を中心に話を進めているけどその前の4以前の作品だってあるんだからね」というファンの方の意見は尊重すべきだとは思いますが、なんだかんだエロゲーの名作としての評価を固めたのは、やはり鬼畜王、6.7当たりの時期だとも思われますので、それらの作品群に存在していた世界設定=ゲームシステム、という規定が、8以降一方的に失われ、且つ物語の最終段階、結末であるランス10の段階ですらも、全く回復されることなく葬り去られてしまったのは一ファンとしては悲しいわけです。

4 エターナルヒーロー

と、ここまでお読み頂ければお分かりのように、筆者は鬼畜王、6.7までの三作品と、8.9.10の三作品を、対比的な作品群として論じようとしています。この対比を真っ先に感じた瞬間としては、具体的には8のマグナム辺りの展開が挙げられると思います。この辺りから、話の内容が「超越的」な方向に引き寄せられていくんですね。

鬼畜王と10,6と9,7と8,をたとえば対比可能な作品群として並置してみますと、やはりランス君のストーリー上演じる役割というのは、前者の鬼畜王、6,7の側の方が、ある意味で卑小な役割を与えられると思うんです。ここで言う卑小、というのは、何も存在感が薄い、という意味ではなく、物語そのものの中で中心的な役割を演じる人物が別にいて、(6であればウルザやガンジー、マジック7であれば信長や香、美樹ちゃん、鬼畜王であれば他ならぬエターナルヒーロー)ランス君はその傍らで物語の展開を見守る、「視点人物」としての役割を与えられている。

8以降はこの位相はかなり変じられていますよね。やはりこの辺りのバランスの変異は、クルックーというある意味でランスクエスト・マグナムのヒロインキャラ、が出てきてからというのが大きいと思う。

つまり、「全てを作りだした、存在の源としての」ルドラサウムに直結する組織としてのAL教との距離感が、法王になったクルックーとの関係性を通して、直接的なものに変わってしまった。物語の展開上これが何を意味するかと言うと、ランス10の第二章の結末を待つまでもなく、全ての進行が、ある意味で神目線になってしまうんですよね。

たとえばランス6では、民衆を引き連れた逃避行の最中に、ランスが何の脈絡もなく急に拗ねる、というシーンがあったと思うんですが、これ、正直ストーリー上は別にいらないんじゃないか、とプレイしている最中は思いましたよね(笑)。ただ、今思えばそうした、物語の大枠とは何の関係もないような逸脱、が、ある意味でランスシリーズの主人公としての、視点人物としてのランスの役割を規定していた、とも言えると思う。

要は、キャラクタが勝手に動き出しているんですよね。逆に、ランス9などではストーリーの展開が先にありき、で、各キャラの台詞回しや思考などが紋切り型、な印象を受ける。(あくまでも主観です)

もう一度ストーリーの展開に戻って言うと、やはりルドラサウム、というのは、そもそもがルドラサウムを楽しませるために生み出された大陸上のメインプレイヤーにとっては、抗うべき対象だと思うんです。ランス10の中ではむしろ、丸い者として生まれたケイブリスの運命への抗いぶりの方が目立つくらいで、魔王になったランスも含め、全てが「超絶展開」をただただ是認する方向へ流れてしまっている気がする。

そこで、この項の主題たるエターナルヒーロー、なわけです。彼らは、まさに上記、ルドラサウムに抗う、(それすらもプランナーの手の平の上、かも知れませんが)という役割を演じるために生まれてきた存在、と言えるのではないでしょうか。

この点は、さらに才能限界や無敵結界に対する解説とつなげて言うと、世界設定=システム設定というランスシリーズの特徴とも一致してきます。

彼らは、魔王ジルの時代にプランナーと謁見することで、自らの存在をシステム設定の内部へ直接組み込ませたのです。魔人を傷付けうる、というシステム設定の側から、エターナルヒーローという世界設定を逆に作り出した、とでも言うべきでしょうか。

これは何もカオスと日光ばかりに言えることではなくて、たとえばホ・ラガは「世界のすべてを知りうる者」という立場をキャラクタとしては隠居することで獲得しますし、カフェに関しても、エロゲー内のキャラクタであればある意味で超越的存在と言える「世界一の美貌」を、プランナー謁見前の自分の存在を捨て去ることで一時的に獲得していた。
尤も、彼ら全てに共通して言えるのは、そうした超越的な力を獲得するために、自らが生きていた頃の人間性を捨て去らなければならなかった、ということですが。

上記のことの象徴として物語内で描かれているのは、言うまでもなくパーティーのリーダーだったブリティシュ、の存在でしょう。彼はそもそもプランナー謁見前に敵対していた魔道士の手で壁に埋め込まれた、とされていますが、どちらにしろ、他のパーティーメンバーの願いを叶える代償として、キャラクタとしての可動性を完全に失ってしまったのです。何が言いたいかというと、本来、そうした「超越的な力」を獲得するためには、ゲーム内キャラクタとして個の存在が、かき消される必要がある、ということです。

上記のことと対照的な人物が、他ならぬランス、でしょう。彼はクルックー、というルドラサウム直下の人物と関係することで、ランス8マグナム以降物語の主人公として必要な傍若無人さを失ってしまったように見える。それは繰り返しになりますが、エターナルヒーローがまさにそうしたように、個としての自身の存在を消失することすら必要とせず、物語の「なんでもあり感」に付き従うことが可能となってしまったからです。だから、ランス9以降のストーリーというのは、ある意味でのやらされてる感、一本道感に苛まれることになる。

逆に言えば、そうした、ストーリー上約束されていること、どうしても覆せないような世界設定、そのものに、抗い続けたのがエターナルヒーローだったわけです。鬼畜王ランスなどにおいては、ある意味で物語自体の裏の主人公とも言えるような存在でしょう。立場は違えどシルキィなども、そうした目の前の現実、に抗ったからこそ人類にとっての英雄足り得たのだと思います。

もっと積極的に云えば、RPGの主人公たるもの、エターナルヒーローのような態度を保っていてほしい、と思うのです。世界創造主、の予定調和的な世界に抗ってこそ、
そこに抗える可能性を持つからこそ、RPGは面白い、とも言えるし、プレイヤーの側はゲーム世界そのものを最終的に打ち破るような快感を想像することができる。

ですから、全てがプランナーの手の平の上、ということを強制的に是認させられる第二章の展開というのは、ユーザーによっては受け入れがたいものだったのではないでしょうか。

5 AL教、バランスブレイカー

ただ、
この「主人公の側が超越的な力を持ち、最後まで突っ切る」という傾向そのものは、全世界のRPG規模で起こっている事態だとも、個人的には思っています。具体的に例を上げれば切りがないんでしょうが、代表的なものとしては、初めからDragonbornとしての存在を運命づけられたSkyrimや、Originsの段階ではウォーデンのリクルートに過ぎなかった主人公の立ち位置が、いきなりインクイジターとして物語の進み続けるDragonAgeInquisitionなど、ということになるでしょう。最初から最後まで、無双する話、秩序目線、神目線の話が、全世界に何と溢れていることでしょうか。

繰り返しになりますが、RPGの本来的な主人公というのは、十数年前まではそうした立ち位置ではなかったように思いますね。どちらかというと、何の変哲もない村人的なところから始まって、いずれ世界が認めるところまで上り詰めていく、というね。たとえばOblivionなどでも、世界を救う存在としての主要キャラクタは別にいたわけだし、Originsなどでも、最終的に世界を救うための条件というのは、当然、かなり厳し目なものとして設定されていた。

要は、エターナルヒーローの項でも直接触れたように、世界設定そのものに当たる部分に自分を組み込もうとする場合、それなりの代償が必要なわけです。

そこで問題は、AL教、バランスブレイカーの話に移ります。本当にお前は回顧厨か、と云われるかとは思いますが、鬼畜王ランスにおいては、当然AL教というのは最終的に人類に災厄をもたらすような存在として立ち現れてくるわけです。つまり、超越的な存在というのは、主人公とは敵対するものとして定置されているんですね。

この点については、ランス10は全く異なる。ストーリーの最も根源的な帰着点としての、シィルがそもそも何故生きていたのか、という部分に関しても、

「じゃじゃーん、実はこうだったのです!」という、その理由についてクルックー以外の誰も予想できないある種のバランスブレイカー、によって説明されてしまう。

だから、もう何でもありなんですね。CPボーナスとして、「なんでもあり」を選ぶ前からストーリー的にはもう何でもアリ。

そういうものだから、そういうものなんだよ、という冒頭からあり得るランスファンの方からの反論は、まさにランス10の物語としての構造の本質を指し示していると思う。そして、そのストーリー展開が許されるようになったのは、アリス、という神と自由に謁見が可能な、視点の位置が他のキャラとは全く異なるクルックーという人物が、ランスの仲間として位置づけられるランス8以降なのでしょう。

私の印象では、ランス8の時点でバランスブレイカー、という設定の提示された当初は、どちらかと言うと上に述べた超越的な力の行使を、世界設定のバランスを壊すもの、として取り締まるために用いられようとしていたと思うんですが、クルックー、というキャラの影響が物語中で色濃くなるに連れ、場合によっては主人公側がバランスブレイカー、を自由に行使できる、というような概念に変わってしまいましたね。「法王特典」などはその最たる例でしょう。

要は、AL教の側に属していれば何でもできる。むしろ、そこに抗ってみせようとするのはラサウムの下僕たるネプラカス、くらいだったのではないでしょうか。

で、そう考えますと、あの、鬼畜王のラストにやってくるエンジェルナイトの襲撃というのは、本当に驚異的だったし、世界創造主に対し何をしても対抗できない絶望感を存分に味わうことが出来た。そこで為す術もなく仲間が「討死」していく感じね。この「討死」っていう要素が、やっぱり大戦争RPGを謳うなら本来持っているべき要素ですよね。

すべての仲間を救うことなど出来ないし、圧倒的な兵力を持つ敵相手であればどうしても犠牲も必要になってくる。それをかいくぐって上手く立ち回れれば、自分自身のプレイヤビリティの向上も感じることができるし、とにもかくにも、世界創造主、という超越的な存在と敢えて距離を置くことで、無力な自己を感じざるを得ない状況に追い込まれること、そしてそこに立ち続けたまま抗い続けること、こそが、RPGの主人公の冒険者たちには求められるのではないか。少なくとも鬼畜王の時点で、上に延々と書き連ねた筆者の願望のようなものを具体的に体現してくれていたのが、エターナルヒーローだったわけです。

(ただ、上記のことと全く関係ないですけど、ランス10のストーリーにおいて、カイズは怪しいですね。救いようもなくいきなり倒壊してしまう点、AL教の総本山としての地政学的な立ち位置などを考えれば、今後、無いとは思いますけど追加ディスクがリリースされたり、もしくはアップデートパッチで要素が追加されたりする場合、アムなどの暗躍も含め真っ先にAL教関連のイベントは掘り下げられそうな気もする)

6 まとめ

以上、最後は筆者の勝手な思い込みと妄想のようになってしまいましたが、何にしても申し上げたいのは、鬼畜王ランス、6,7、までの制作過程と、8,9,10に至る制作過程で、ランスシリーズ全体に対する造り手側の抜本的な認識の転換があった、ように見える、ということです。

それは、
1 才能限界
2 無敵結界
3 運命の女

の各項目に即して云えば、
世界設定=ゲーム内システム設定というランスシリーズ最大のゲーム的な特徴を捨て去った(そこまで厳密に対応させない)ということになるんだろうし、

他方で、
4 エターナルヒーロー
5 AL教、バランスブレイカー

の各項目に即して云えば、
冒険者としてのランス、主人公としてのランスの立ち位置が、物語のダイナミックな展開をある意味で傍観する視点人物的な位置から、ルドラサウム、及びAL教にある意味で従順な、語り手的な位置、神目線及び超絶展開を無作為に受け入れる他ない、「無力な」存在に貶められたことを意味しています。

この無力さというのは、ある意味で逆説的な言い回しでして、むしろ地上においては魔王になったランスよろしく、超越的な力を思うままに発揮することができる、という意味です。ただ、それは唯一つ、世界創造主に絶対に逆らえない、という条件付の元での力の行使であって、やっぱりRPGの主人公としてはパンチが弱いですよね。

さらに、最後になって要素をもう一つ付け足すようで申し訳ないんですが、ランス10においては勇者の意味合いも、天使に付き添われた神々の側の手先、のような立ち位置に変わってしまっている。だって、恋人は魔軍の侵攻によって死んだんであって、普通に考えたら人類の死滅率に応じた力の覚醒の過程で標的にすべきなのは、真っ先にケイブリスであるべきでしょう。その後に美樹ちゃんの下に来るのなら話は分かる。絶対的な力の行使、によって争いを鎮めようとするなら、ランスより魔軍全体を討伐したほうが早いし、自身の運命に対する理にも適っている。

つまり、まだ魔王として覚醒していない美樹ちゃんを殺す、というのがアリオスの初めのイベントシーンと心情的に直接つなぎ合わされていないような気がするんですよね。勿論、システム上の勇者の目的は魔王の討伐であるけれども、阿摩羅モード、涅槃寂静モードという設定もあるわけで、そこを自分自身の体験から読み替えて、一級神や二級神、ニ超神をも殺してやろうとする気概を見せても良かったのではないかと。

まあ、端的にゲーム内システムで言うと、シルキィやハウゼルの所には殺しに来て、残存するケイブリス側の魔人を殺しに行かないのはおかしい。お前はケイブリス、もしくは神の手先なのか、と言いたくもなる。

と、最後まで延々願望を書き連ねてしまいましたが、やっぱり世界の枠組みを成立させた超神や創造主の所にまで主人公が到達してほしかった、っていうのは単純にRPGの完結編に対する個人的な思いとしてありますね。少なくともエターナルヒーローはプランナーに謁見したのだから。

そのへんのことを、やはりALISESOFT アーカイブにある配布フリーの「鬼畜王ランス初回本」などを読んでいると強く思いますね。いや、本当、この設定資料集は相当面白いですよ。鬼畜王自体は外伝という扱いではあるけれども、実質的には以後のランスシリーズの流れを設定上、既に決定づけているとも言える。

ちなみにその初回本の中で
魔王は、Vampire of Blood Pool であり、
魔人は、Dark Load であり、
使徒は、Eternal Dollf です(笑)。
なんかよく分からんがとにかく格好いいですよね。
そして、テェロ・エティエノや三魔子はどこへ行ったのか。なんてことを言っていったらやっぱり切りがないんですが、最後にこの冊子を持ち出したのは、その中に「ETERNAL HEROES」、という小説が在るからです。

こんなことを書くと「お前はAL教の信者ではなくとりさんの信者になれ」と云われそうですが、織音さん挿絵のその小説がまたいい。ランスシリーズは終わったけれども、それこそ時代を遡ってまた新しい冒険が始まる気がする。そこに描かれているような個人の心情、世界設定に抗う為に遺跡の最深部を目指す姿勢こそが、世の中の全てのRPGの主人公たる冒険者に求められているものではないのか。すごろくの盤面のようなランス10のMAP風景には、この「最深部に潜っていく感じ」が無いんですよね。

……………………………
最後に、記事の冒頭から終わりまで、徹頭徹尾批判的な内容で書いてしまったことをお詫び致します。ただ、「大戦争RPG」であればやはり「討死」もありうる緊迫感とリアリズムに満ち溢れた作品が見たかったし、他方で、「ローグライクランダム生成カードバトルアドベンチャー」のようなものが、ランスの最終章としてふさわしかったのか、というのは、なんだかんだ第二章をクリアしてから数ヶ月経って思い直すところであります。

批評サイトなど、各所を覗く限り「真・鬼畜王」は必要ない、というランス10ファンの方の意見も多く見受けられますが、自分はやっぱり(鬼畜王自体を超えるかどうかは別として)何らかの形で今回のランスの終わり方を補完する内容の別作品があってもいいのではないか、とも思っております。

その場合にはぜひ、上に繰り返し述べさせて頂きました、「世界設定=ゲーム内システム設定」というランスシリーズの特徴に立ち戻ってほしい、というのが、何の権限もない一ファンからの勝手な希望です。

まあ、永遠に来ないその時を待ちながら、鬼畜王ランスでもやっときます(笑)。

コメント

  1. 居眠り より:

    記事、拝見させて頂きました。

    ああ、これだな。っとストンと心に落ちました。
    ランスシリーズに対する愛情や敬意がすごい良く伝わってきます。

    エロゲ業界にしては珍しく人員がなかなか流出しなかったアリスソフトが
    ある時を境に一気に辞めていったそうですが・・・。
    やはりその頃に乗っ取って奪った地位に勘違いした自惚れた人員に
    変わってしまったのでは無いかと考えています。

    昔大人気だった週間少年ジャンプの編集者が代替わりを経て
    自惚れだし、威張始め、漫画の内容が破滅的に。自己賛美も過多。
    スクエアに関してもFF本来の製作者陣を追放して以降の落ちぶれぶり。
    乗っ取った地位を勘違いしてすごいのは自分だと思った自惚れ独裁ぶり。

    私の想像でしかありませんが、アリスソフトもそういう自惚れの人材が
    会社を乗っ取ったのでは無いかと考えています。

    ランス9・10では主人公ランスの俺様は正しいドヤ!何でも知っている計算通り!思った通りに上手くいく!等々・・・これじゃない感が吐き気を催しました。(8はギリギリ・・・)※正し違和感出始めてますが

    5は未プレイの私ですが、6・7とプレイしていてハマって行った
    あの高揚感は今でもわすれられません。
    また、主人公のランスにしても破天荒な性格ですが、
    事女の子のことに関してはどんな用事や目的をほったらかしにしても
    例えどんな危険があっても突っ込んでいく正g・・・女の子の味方!
    あと悪人(特に女の子に関する)は問答無用でバサー!
    倫理がどうのー。道徳がどうのー。ではなく
    気持ちいいくらいに悪人を躊躇なく殺していく他に類を見ない爽快さがありました。

    ランス10を初プレイした時のランスの言動の気持ち悪さはちょっと異常です・・・。
    ゲームシステムも酷かった。
    選択しも分岐も無いのに紙の上の次の〇まで動くアクションの為にスキップの強制停止。
    エンターだけで会話進められず必ずマウスでクリックに切り替え。
    画面を切り替える意味が全然無いのに・・・。
    紙芝居みてる気分でした。
    戦闘は1枚の絵を、ゆらゆら~・・・・と揺らすだけ。はい?何これ?
    盆用キャラでLV40台とか出てきた時は目を疑いました。更に50台で絶句。
    それも各国でほんとゴミクズの如くわらわらと・・・今まで歴代のキャラよりことごとくLV高いとか。
    何これ何処の紙芝居同人サークルゲーム?と絶望しか出てきませんでした。

    グーグルで感想検索しても悪評は1つも出てこないし・・・
    ああ、アリスソフトがグーグル買収して言論統制してるなと分かりましたが、
    隠蔽にだけ力注いで粗悪品売付けてお金儲けする会社になたのか・・・と。
    (意味不明な賛美の声だけ出てました。宣伝でしょうね。)

    ともあれ仮にもこれまでランスシリーズを追いかけてきた結末を見たい、と
    気力を振り絞ってゲームを進めたところ・・・。精鋭魔物部隊?
    何かポット出でいきなり心を通わせるライバル部隊設定?
    え?何?ユーザー馬鹿にしてるの?
    作中何度も戦っていた強キャラが居たならともかく・・・。
    FF7のタークスをパクれば素敵な作品になったとか思ったんでしょうか・・・。
    正直この開発スタッフに人の心って存在しないのでは?少なくとも
    他人の気持ちを考える、人の心を感じるという能力はほぼ0と理解は出来ました。
    もうストーリーは滅茶苦茶、人格も滅茶苦茶・・・何がしたいんだろうこの会社。

    2章に入ってからの下りは本気で捨てそうになりました。
    今までのシリーズに登場したキャラクターは役立たず。俺たち(現開発)が
    作ったキャラが主役で凄いぜ!昔の開発が作ったキャラは雑用に使ってやろう(ニヤニヤ)
    的な印象しか受けませんでした。
    旧陣営の嫌がらせに使ったんじゃないでしょうか?あれ
    そういう悪意と自作キャラのご都合主義の展開しか見せない2章ほど
    最悪なストーリー展開無かったです。
    最後のムービーなんかたぶん、シエルが居なくなる下り、
    鉄拳のパラパラ漫画「振り子」をパクってアレンジしただけですよね?

    ランスだけに限らないんですが・・・
    スターオーシャン3というゲームで前作のゲームその物を全否定したり、
    FFシリーズ、ランス等で歴代の作品を否定して自分が凄く偉い人になれると勘違いしているような人たちってなんなんでしょうか・・・。

    話がそれましたが、初めてランスシリーズに愛情を持った書き込みを見た気がします。
    引っかかっていた事がすべて書かれているような記事でした。
    他にも同じ気持ちを持った人が居たことが嬉しかったです。

    願わくば・・・ランス9・10を無かった事にして1から作り直して欲しいものです。

    • tanemoto_endou より:

      居眠りさん、コメントありがとうございます。
      私は業界の内情については分からないのですが、
      ランスシリーズの形式上、8以降に覚えた違和感を書き連ねてみました。
      とは言え、お互い愛憎入り交じる、といった感じでしょうか(笑)。
      元々のシリーズに対する愛が深いからこそ、
      最後はこうあってほしい、という思いが強まってしまいがちですよね。
      鬼畜王は未プレイ、ということですが、であるとするなら、
      今回記事に共感頂いた熱意で持って、ぜひ外伝にあたる鬼畜王もプレイしてみて下さい。
      むしろ、ある種の「本当の結末」として。
      ランス10をプレイした後に鬼畜王をプレイしてみるのもアリかと思います。
      とは言え、まずはストーリーやシステムに関する書き込みに共感頂いてありがとうございます。
      そして、繰り返しになりますが、
      その「先」にまだまだ色褪せない鬼畜王があることを信じつつ、コメントへの返信とさせて頂きます。
      ではでは。

  2. 新参 より:

    たまたまこの記事を発見して読ませていただきました。
    私はランス10発売後に半年ほどかけてシリーズ全てやり通し、ランス10のプレス時間も300ほどあるのですが、はっきり言って他所で絶賛されてるのが不思議なほど10には疑問点が多かったのでここで整理された意見も見て「自分もこんな感じだな」と納得いたしました。
    特に二部で今まで追ってきたキャラたちをほぼ全て切り捨てたのは立ち眩みがしました。
    言い方は悪いですが、ランスの子供でキャラとして一人立ちしていたのはダークランスとリセットのみ
    この二人に関しては6からシリーズに入った事もあり中々思い入れがあったのですが、他の子供なんて女キャラのアクセサリーとしか思っていなかったです。
    だというのにランス最終作の完結エピソードが殆どこの子供たちで、今までのキャラがアクセサリーのような付属品になっていたのは驚愕しました。
    また8(マグナム含)と10はゲームの形式上小話の連続で全体的に薄い印象も同感です。
    でも9は上の方とは違って敵が弱すぎる事や、数合わせのように増えた運命の女以外はキャラの扱いやストーリーも一本に纏まってて好きでした(8の後でハードル下がってただけかも)
    ただやはり10の消化不良感やキャラ処理の雑さ等はシリーズ新参の私からしても(むしろ新しくハマったからかも)ガッカリを通り越して呆然だったので、その辺の意見を上手くまとめた記事を読んで少しスッキリ致しました。

    鬼畜王は現在楽しんでますが、ロレックスがオルオレに会って救われた正史とそうでなかった外伝どちらもランス様といい意味で対称的な性格の漢でいいですね。

    • tanemoto_endou より:

      新参さん、コメントありがとうございます。
      二部は正直、ある意味での別ゲーですよね。
      いや、長田くん、でしたか、
      普通にクスリ、と笑わせてもらえる所もあるな、と思いつつ、
      やはり子どもたちがキャラ立ちしてるかと言ったら、
      そうとも言えない部分もあるんだろうし。
      既存のシリーズ上のキャラの方を優先して描ききってほしかった、
      という点については私も同感です。

      一方で、9に関しては意見の分かれるところなんですね。
      いや、私は正直、
      ヌルさとやらされてる感で最後までプレイできなかったのですが、
      きちんとストーリーを追った方にとっては光る所もあった、
      ということでしょうか。

      すいません、逆に私の方がにわかで、
      ランスの物語の上で重要な部分を
      すっ飛ばして記事を書いていたかも知れません。
      色々と不備のある部分がありましたら、お詫び致します。

      しかし10に関しても、
      前にコメントを下さった居眠りさんにしても、俺にしても、
      9にはむしろ肯定的である新参さんにしても、
      なんだかんだ何百時間もプレイしているんですよね(笑)。
      勿論、私自身記事にしたように
      山のように批判したい部分はあったんですが、
      あれだけの規模をまとめ上げること自体が膨大な作業だったわけで、
      惜しいと思いながらも、今は何となく納得してる部分はあります。
      逆にその辺は、
      本当に思い入れがあるからこそ目についてしまう点でもありますよね。

      そういう意味では、
      新参さんは9をしっかりプレイされたこともあり、
      ロレックスに強い思い入れがあるようですね。
      逆にその視点から鬼畜王のヘルマン編を遊ぶ、というのも、
      本当に、人によって見え方が違うというか、
      神話的な、大河作品としてのランスシリーズの奥深さを感じる所であります。

      何れにしても、特に9をきっちりと遊びきった方の視点から、
      貴重な意見をありがとうございました。
      テクスト、に関しては、
      やはり読む側によって多様な意見があると思うので、
      「9のストーリー面は評価しつつ、
      それでも10には若干の違和感がある」、
      という方向を補填してくださって有り難く思います。
      引き続き、鬼畜王の方も楽しんで下さい。
      ではでは。