生命を注ぐための器の鑑定士「スクーラ・アツゥラ」

NPC

VR1098年生まれ  性別不詳

スクーラ・アツゥラは、ディレリアのモス山中に暮らす隠者である。元は、エスクケイルザン教の司祭をしていたが、組織内の政争を嫌い、現在では首都から離れた自身の草蘆で晴耕雨読の生活をする傍ら、人物鑑定をとり行っている。

来歴

前職が司祭であったことも手伝ってか、彼による鑑定の評判は非常に高いようで、フロウタール全土からの訪問客が一日たりとも絶えることはない。そのため、アツゥラに人物鑑定をしてもらうには、まず一度草庵に顔を出し、酷いときには五ヶ月以上も待たされるという鑑定の予約帳に、小姓へ頼んで名前を記して期日を確認する必要がある。

そうして、晴れて「鑑定」を施してもらう段になると、まず再訪した被鑑定者は、鑑定前に長時間の睡眠を促されるのだ、と言われている。これは、一時的な労働や長旅の疲労によって、被鑑定者の状態が変じているのを、フラットな姿勢に戻すため、と考えられる。

というのも、これは実際に彼による鑑定を受けた者たちの証言によっているのだが、彼の「人相見」は、主に顔立ちのある特異な集約点、即ち瞳孔の手前の虹彩の中に波打っている光を詳細に観察することで、その人間の持っている渇望感、権力への志向や自身の能力への確信、生の営みの充足度を推し量ろうとするものだからである。

この辺りは、まさにザン教の元司祭、である彼の経歴にふさわしい手法と呼べるかも知れない。その具体的な流れというのは、まず初めに、各地域の既存の権力、体制への不満や充足度をどの程度持っているかが、覗き込まれた水晶体の弛緩と収縮によって計られ、次に角膜の上を満たす涙液の量と加減によって、瞳を注視されている被鑑定者が自身の持つ能力と世界内での発揮に満足しているのかどうか、さらに別の何かを求めているのではないかを推し量られる。

これら二つの要素の組み合わせによって、中間体である虹彩の襞の焦点が見定める像の距離感が決まる。つまり、簡潔に分類すると、

5 権力志向があり、自身の能力の発揮に満足
3 権力志向がなく、自身の能力の発揮に満足
2 権力志向があり、自身の能力の発揮に不満
4 権力志向がなく、自身の能力の発揮に不満

という、4つの人格特徴の位相が、一人一人個別に異なる虹彩模様の襞のうちに読み解かれることになる。この過程が、冒頭でスクーラ・アツゥラの異名として提示した「生命を注ぐための器の鑑定」と呼ばれるものなのである。ザン教の圏域に生息する個人であるならば、皆、これらの分類を通した、自身の能力の最大限の発揮と、その過程でどのように権威と向き合うべきか、という課題に直面することになる。尤も、それらの生命をどのように現在注いでいるか、見定められた結果を受け入れるかどうかは鑑定された個々の人間の自由ではあるが。

上述した全ての鑑定結果は、さらにもう二つ分の位相として、6 権力志向も、自身の才能の発揮も放棄して、「無感動」に陥ってしまった人間、と、1 世界の、ありとあらゆる事象を喜びと感じる人間、という極端な人物像をもごく少数ながらも導き出してしまう、というのは鑑定するアツゥラ本人でなくとも理解できることだろう。ただ、当のアツゥラ本人はと言うと、それらの個人への対処は人格鑑定者の仕事ではなく、既に臨床の必要性と治療の段階に移っている、として、敢えて特異な襞を持つ被鑑定者には結果を告げ知らせないようにもしているらしい。

いずれにせよ、虹彩の襞の個別性を、どう自身で捉え、何を新たに「見定めるか」はその後の個人の裁量に委ねられているわけだし、角膜の上の水面、をどう導き、瞬かせていくのか、改めて被鑑定者それぞれが立ち止まって考えるほうが賢明だ、というのは、他の一般的な人相見の結果の受け止めとさして変わらないようでもある。当たるも八卦、当たらぬも八卦、というのが、彼の「生命を注ぐための器鑑定」を受けた人間の率直な心象、と言った所だろう。

日々の行動と能力

1 華美の原罪を想う

2 不寛容の原罪を想う

3 飽食の原罪を想う

4 享楽の原罪を想う

5 闘争の原罪を想う

6 勤勉の原罪を想う

SPECIAL
5555555
闘争華美飽食享楽不寛勤勉渇望
111111
空間時間
33
保持スキル鑑定栽培読書

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