例のごとくシネフィルWOWOWで見ました(1993年作品)。最初は時代的にもビバリーヒルズ青春白書みたいな学園モノのノリなのかと思ってたら、全然違いましたね。(以下、全体的なあらすじと最終的なネタバレを含みます)
というより、初めからこの作品はそう云った誤解、を強いるように組み立てられている。
その組み立て方こそがこの作品の本質なのでしょう。もう少し具体的に言うと、これ、本当に初めの30分~1時間は何に関しての映画か分からないんですね。
それこそミケランジェロ・アントニョーニでも意識して撮ってんのか、っていうくらい、いわゆる「反物語」のような、断片的な場面が繋げられていきます。
大学キャンパス内での連続レイプ殺人事件が中心に据えられているように見えるにしろ、ニコール・キッドマンの夫妻と、同時期に近辺に移り住んできた夫の同窓の友人の超優秀な医者、の周辺で進行していく映像の外形のうちで、普通のサスペンスなら、徐々に深められていくはずの当のレイプ事件の捜査は全く進展を見せないし、他方で、一見してその「中心」からは枝葉のように見える酒場でのやり取りや、ニコール・キッドマン夫妻の家の水道管が壊れてしまっていること、そしてニコール・キッドマン夫妻の夜の営みを隣家の少年が覗いていること、など、一体どこで収集が付くのかもわからない場面が延々と連ねられていきます。
ただ、最後まで作品を見た方にはお分かりのように、これらの展開は全て、物語中盤から後半に掛けて全く別の帰着点に行く付くための振り、演出に過ぎないんですね。その過程で、客を飽きさせないために、というか、大学でのレイプ事件が映画全体の本質であるかのように見せかけるために、(しつこいようですが)ニコール・キッドマンが夫と性交する際の姿勢や、真犯人の側のブロンドの髪の収集癖などが撒き散らかされているわけですが、それらも中盤からガラッ、と変わる展開に比すれば本当に些細なものです。
この転換について言及する前に、これは映画全体の展開とも直接つながるのですが、今回の作品の撮り方の一つの特色として、「通底した視点人物を持たない」、という点を指摘しておきたいと思います。
勿論、ニコール・キッドマンの夫の大学教授、こそが話全体を統括する立場にいることは最後まで見れば明白なのですが、その過程で、特に前半に描かれるいくつかのシーンは、その夫の同窓の優秀な医者、ニコール・キッドマン自身の視点によって、本来なら中心に見定められていなければならないはずの、大学キャンパス内での殺人事件、からは巧妙にそらされています。
で、この視点のズレが、徐々に話が進められていくにつれ、全く別の中心に吸い寄せられていく、その手並みがこの作品の本質なわけですが、重要なのは、上に述べた展開そのものの位相のズレ、が、作中の特定の人物によって、はじめから意図されたもの、としては全く扱われて「いない」点です。
そもそも、夫の同窓の医者が夫婦の家の近辺で働き始めたのも偶然だし、夫婦の家の水道の配管が壊れていて、三階に誰かを住まわせなくてはならなくなったことも、大学教授の夫が遅刻がちの生徒の家を訪問し、彼女の遺体の第一発見者になってしまうことも偶然、そして、その過程で容疑をかけられ、夫が警察に精液検査を受けさせられることも偶然、
(尤も、腰痛持ちの大学教授の妻が、夫の精液検査中に子宮を摘出する手術を受けていたことは「偶然」ではなかったわけですが)、さらには、その子宮摘出手術の結果、妻が自分自身不妊症になってしまったことに絶望し、彼女と離別した挙げ句、大学での殺人事件の真犯人を夫の側が見つけてしまうことになるのも、全く「偶然」というわけです。
↓ 確認のためもう一度言及しますが、以下には、「冷たい月を抱く女」に関する最終的なネタバレを含みます。
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再度整理すると、この偶然の連鎖によって、大学のキャンパス内で展開されるはずだった話が、全く別の「必然的な」結末に向かっていく、その終盤がこの映画の一般的な「見どころ」ということになるのでしょう。ですが、私にはむしろ、ニコール・キッドマン演じるペテン師の女の悪性が「必然性」に帰結する前の、偶然巻き起こされるいくつかの場面の連なりに過ぎない前半の映像のほうが、巧妙で、鋭い批評的視点を持っているように思われるのです。
どういうことかと言うと、この作品の前半は、上に述べました必然的な後半の展開が、「起きなかった」可能性にも同時に言及しているわけですね。全ては偶然の産物であり、(勿論、キッドマン演じる妻が別のタイミングで、事件を起こす可能性は常に存在していたわけですが)夫の同窓の医者が、普通に友人関係を取り結んだことも、十分に考えられた。尤も、男女の仲が生成されることは偶然ではなく必然だ、とするのはあまりに綺麗すぎる結論ですが。
この、「何も起こらない可能性」を、ふわっ、と撮っていく、っていうのが面白いな、と個人的には思いました。この記事自体の表題のNCISとの比較、って件に戻ると、(NCISはあくまで一例で、海外放送のサスペンスドラマなら何でもいいのですが)日本のCS放送でも見れるそれらのほとんどの作品は、「事件が既に起こってしまった」時点から話が始まり、いくつもの異なったシチュエーションの場面が複雑に接合されるにせよ、それらの入り組んだ伏線は、最後にはすべて「必然的なもの」として、事件にとって重要な証明や証拠として回収されることが多い、と見受けられるからです。
(当然ながら、それらのことが最後にパズルのように結び付けられる結末こそが、こうした刑事ドラマの魅力であり、観衆がカタルシスを感じられる瞬間であるでしょう)。
ですが、今回の作品の場合はそうではなくて、初めに、いくつものたまたま起こった出来事の連なりがあり、それらが折り重なることもあれば、まったく絡み合わないまま、霧散していく可能性もある中で、着々と、はじめから提示されているキャンパス内での事件とは全く別の展開に行き着くための仕掛けが生成されていく。この点こそが、今回の「冷たい月を抱く女」の作品としての構造そのものを決定付けていると言えると思います。
「そこで何が起きたのか、これから何が起きるのか」というのは、ジル・ドゥルーズによるあまりに分かり易すぎる小説構造の分類ですが、今回の「冷たい月を抱く女」の場合は、前者の「そこで何が起きたのか」という点が、巧妙に隠蔽され、作品中で「起こっていた」ことにすら気づかないうちに、いつの間にか「これから何が起きるのか」という展開に引き寄せられていくわけです。繰り返しになりますが、この辺の演出は非常に上手い、と思います。
前述したように、NCISなどの殆どの作品は初めから「そこで何が起きたのか」という視点にフォーカスが合わせられ、他方で、最もわかり易い例で言えば「24」などは「これから何が起きるのか」という点にフォーカスが合わされているからです。この2つの視点を、相互に全く重なり合わないように前半と後半で接合し直している仕業は、まあこの映画がニコール・キッドマンの尻だけを鑑賞する為のものではないことの証左になっているでしょう。
だからこそ、(私はケーブルテレビの番組表経由で見ているんですが)「ニコール・キッドマンが悪女役を演じた」っていうネタバレをあらすじ中に表記するのは止めてほしかったですね(笑)。いや、そしたらこの前半部分は何だったの、と。まあデビッド・ボウイがどこで登場したのかも分からない俺が言うべきことでもないですが。この映画の本質はどこなの、って問い質したくもなる。
勿論、悪女としてのキッドマン、ってのはこの作品の見所なんでしょうが、わたしとしては上に述べましたように、「偶然」と「必然」の相克こそがこの作品の本質だと思っている。というわけで、文句はこの辺にしておいて、話は物語の結末部の展開に移ります。
ここん所の詳細は、あえてぼかして書きます。もしこれから見る方がいらっしゃったら、この記事を見てからでも楽しみを残しておけるように。そして、最後に無理やり重要な役割を担わされた作中人物の少年に対しての配慮でもある。で、もう一度話を戻すと、この作品の本質は「偶然」と「必然」が巧妙に入り組んでいるところにあったはずです。
そうすると問題は、(前半の偶然性、にこそ注目する私のような人間は別にして)最後に物語をまとめ上げる必然性はどこにあったのか、という点になってくるでしょう、…必然的に。
ペテン師としてのニコール・キッドマンの悪性、そして、それにしてやられかけた夫の復讐心、と言ったところは、勿論、後半の展開の「必然性」を裏打ちしていると言えますが、ただ、本当に最後の場面に至る運命を決定づけるための伏線というのは、「偶然」でも「必然」でもあり得るものでしたね。結果的には。
その情報を、この物語の主人公足る夫の側は、かつての妻を捕らえるための「必然」にすり替えてしまいますが、やはりそこの本当のところは「偶然」性に左右されていたわけで、最後に現れる少年の歩行姿勢は、見事なまでにこの作品の全体としての展開そのものの換喩になっている、とも言えると思います。
ただ、何れにしても、それはちょっと悲し過ぎはしまいか、作品としての完成度を放棄してでも、かの少年を今回の映像の外部に留めておいてはくれまいか、というのが、多くの鑑賞者の陥る最後の場面に対しての心情となるでしょう。私自身もその点について慨嘆しつつ、この記事の結びにしたいと思います。まあ、うまくまとめすぎるのも考えもの、ってことなんでしょう。
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