大友克洋に捧ぐ「童夢」論: 夏目房之介先生、お疲れ様です!

投稿者: | 2018年4月30日

なんか変なタイトルになってしまいましたが、
この記事は大友克洋の「童夢」についてブログ筆者が論じたものです。
(大友克洋氏とも夏目房之介氏とも何の関係もありません)。
ちなみに、二年ほど前にこれを書き上げた時、
勢い余って実際の夏目房之介先生に論文として
手渡しに言ったのですが、その後、
何の返答も頂くことはありませんでした(笑)。
いや、当たり前っちゃ当たり前の話なんですが、
そしてそんなもの記事にするなよ、という話なんですが、
自分自身の脳内倉庫用として、ここに保管しておきます。

以下、そうした性質のものですので、
やけに偉そうな論文口調で書いてありますが、
(もし一人でも読者の方がいれば)ご堪忍を。
また、一コマ一コマを分析していく、という体裁をとっておりますから、
文字上のこととは言えネタバレにもなっていますし、
逆に言えば「童夢」本編を持っていない方には
何のことか分からない内容にもなっております。
(批評を補足する上で、9コマほど画像も引用してあります)。
そのへんを許容できる珍しい方は、続きをどうぞ。

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私はこの論述の中で、大友克洋の「童夢」を、
コマ割りによる漫画のストーリー展開の諸特徴が、
極めてわかりやすく、
読者にも明示的な形で示されているものとして把握し、
分析してみたいと思う。ここでわかりやすく、というのは、
他の実験的な作品に見られるようにコマ割りを、
特定の意図にのみ用いるため
極端に制限して扱ったりしておらず、
物語の展開に即した形で、
自然に接合しているという意味である。
また、明示的な形で、というのは、
一ページあたりに割り当てられるコマの段組を、
主に三つ、見開きで六つの段で構成し、
平易に扱っているという点による。
横に長い抜きで一つ、縦に三つ、
横長二つと縦長二つを段の中央で接合、
など、当然作中で数多のヴァリエーションは存在するが、
右から左への視線の流れを一ページのうちで三回、
という法則は、ほとんどのページで守られている。

この段組ごとのコマ割りの構成が、
それぞれ個別の形式的な意味を持っている、というのが、
筆者の主張である。よりわかりやすくするために、
一つの段に幾つコマが並べ立てられていようと、
その段は一つのまとまった意図を持っている、
と考えてもらって良い。
この辺り、カメラワーク、とすると多分に語弊があるので、
ある種のコード進行のようなものだと考えて頂けると
わかりやすいかもしれない。
一ページで三段、見開きで六段、
幾つかのコマで構成されるそれぞれの段が、
段ごとに形式的な意味を持ち、
その形式に則って物語を展開させていく、
「童夢」とはそんな漫画だろう。
非凡なのは、その段ごとのコマに割り当てられた形式的な意味が、
全く物語の展開と乖離しない形で、
むしろ見事なまでに平行性を伴って展開していくという点である。
では一体、それぞれの段ごとのコマに割り当てられた
形式的な意味とは何か、
そして、
それがどのように物語に接合されているかという点については、
多分に筆者(私)の主観による所が大きいが、
読者に於かれましては、
少なくともここで論述される幾つかの分析が「童夢」の物語上で
実際のコマ組みとして散見されるということだけでも
ご了承いただければ幸いです。

↑コマ割りのコード進行の概念図

さて、では改めてコマの段組ごとに割り当てられたコード進行を
詳察すると、それは六つの形式に分類できる。
一つ目はクロースアップである。
と言っても、
周知の通り大友の漫画にはクロースアップは比較的少なく、
「童夢」においてもその使用は限られている。
しかしながら、その限られた使用が、
物語中でのピンポイントな
或る転換を指し示しているとも言えると思う。
具体的な例示は後の段に譲るが、
チョウさんが悦子に追いつめられる顔、
部長や警官が冷や汗を流す顔、
三浪の勉くんがチョウさんに操られ我を失う顔、などは、
それぞれ誰に影響されたかは違えど、一つの事実、
つまり物語中で進行する事件に関わる力の権限に気付いてしまった、
ことによっている。

クロースアップのコマの例  (©大友克洋)

つまり、個別の顔の感情を強く読者に読み取らせるほどにまで
近寄らせなければならない時になって初めて、
事件を主観的に把握できたわけだ。
それは、例えば高山による超能力者としてのチョウさんへの
知覚のワンショットなどに特に顕著であろう。
以上のような事情から、この、クロースアップによる力の感知を、
ある意味で逆説的な言い回しではあるが、
私は一人称的な描写、として、
一つのコマの形式としてまず初めに定置させて頂きたいと思う。

では、二番目は何かというと、人称的な描写になぞらえて、
それは二人称的な描写といえるだろう。
つまり、クロースアップとは逆なのだ。
文章で言えば、あなたは、という形式になるだろうが、
漫画のコマで言えば、視点人物にとって見えている景色が、
全く視点人物の描写を含まずに
そのまま読者に開示されている絵になる。
たとえば、高山がチョウさんの収集部屋に到達したシーン、
もしくは山川部長がチョウさんと対峙するシーンなどを
思い起こしてもらえればいいかもしれない。
事件の本質に近づいていく、という点では
前述した一人称の場合と上記の例示は同じだが、
視線の方向が違う。

二人称のコマの例  (©大友克洋)

一人称では、クロースアップで描写される作中人物の顔に
直接視線が注がれるが、
二人称では作中人物と読者は同じ対象を見つめているはずだ。
見つめられているのは
むしろ必然的にたどり着くべきだった「場所」である。
二人称というのは、
ある意味でそうした場所から作中人物を描写する
仕組みであるとも言える。
そこでは、あたかもその特定の場所に息遣いや足音を伴って、
作中人物とともに訪れているような没入感を
読者の側にもたらす効果があるだろう。

では、第三の形式は何なのかというと、当然ながらそれは、
三人称的な描写ということになる。
これは、ある意味で話を展開させていくのに
一番オーソドックスなコマ割りといえるだろう。
視点人物は、コマの中に複数いる。
例えば、
新しく岡村部長が赴任してきた時に下校する悦子らに紛れるシーン、
もしくは事務所内での刑事らの会話の往還のシーンなどにおいて、
様々な角度から切り取られる各人物の顔は、
吹き出しの中に提示されるそれぞれの「視線」を追いながら、
また話を投げかけられた別の人物から見た別の顔に移行していく。

三人称のコマの例 (©大友克洋)

そのようにして、
主に横からの人物の並走によって抜かれたコマは、
ある種の共感覚、
その場にいる人間同士の気分のようなものを作り出していく。
これは、次の第四のコマの段組の形式の分析にも繋がるのだが、
予め前提された一般常識、のようなものとは微妙に違う。
公団住宅、という舞台が提示する「童夢」の主題を分析する上で、
この暗部を覆い隠したまま
白々しい外面を露呈する昼の横抜きによる
三人称(この場合、視点人物は各コマの内部にいる)と、
そこでの視線の往還が必然的に作りだしてしまう社会不適合者、
及び複数の「自殺者」を包含する事件を俯瞰しようとする
外在的な視線の対比は、
非常に重要な事だと思われる。

というわけで、第四の段組の形式は、俯瞰、及び、仰角である。
映画的手法における二つのカメラワークを一つの形式として
統合するのに違和感を持たれる方もおられるかもしれませんが、
それは、少なくともこの作品においては、
マンション上部からの自殺者の急増、という事態に対する
上方へのまなざし(仰角)、
及び、その事態そのものを弄んでいる
チョウさんによる外在的な視点の暗示(俯瞰)として、
構造的に理解可能になっている、と思われる。

俯瞰のコマの例(©大友克洋)

仰角のコマの例(©大友克洋)

この立体的な二つの視点に読者を引き込むのは、
基本的にはコマ内に配された黒塗りの部分、
つまりは住宅内の敷地に満ちた夜の訪れによるチョウさんの
力の顕在化である。
対照的に、昼の敷地内ではチョウさんは本性を顕さず、
幼児化した認知症の老人を演じている。
また、その黒い闇のもとに水平方向の視界が閉ざされ、
垂直方向の光を頼りに歩かざるを得なくなった敷地のもとで
引き起こされる事件を「俯瞰」し、
外観しようとする刑事たちの事務所内の振る舞いや議論の流れも
俯瞰的に描写されることはあるが、
彼らは結局公団住宅としてのマンションの立体的な構造を通してしか
事件の核心に辿りつけない。
いずれにしても、そうした物語の核心、
マンション内で顕然化する或る種の闇を、
より深く視点人物たち、及び読者に認識させるのは、
この、視点人部以外の外在的な視点を暗示させる俯瞰の構図、
そしてそれらの事態を何かわからないものとして見上げる
仰角の構図、によってなのである。
ここではその俯瞰の構図が、チョウさんによる超越的な視点と、
コマ内を彩る夜の闇に支えられている点のみを、
次章の一ページごとのコマ組みの分析に先立って予め指摘しておきたい。

少し冗長になったが、
第五のコマの段構成の分類に話を移すと、それは引きの構図である。
他の漫画に比べると、「童夢」を含めた大友の漫画は
ほとんどすべてのコマが引きに見えなくもないが、
それでも明らかな「引き」の構図は存在する。
それらは主に、他の作家の作品とも同様に、
場面を切り替えるときに重ねて用いられているだろう。

引きのコマの例1(©大友克洋)

引きのコマの例2(©大友克洋)

だが、「童夢」において顕著なのは、前の段落の著述と重なるが、
公団住宅における公共性とその公共性に覆い隠された
各個人の心の闇のようなものを、
二つながらにして映し出しているように見える不穏さである。
空や地面、地面に映り込む影、夜の闇や闇を切り裂く各部屋の照明など、
引きの構図においては前項で記述した
背景と光源処理による暗示が特に顕著だが、
ここでは形式上の一つの相違、つまりは第二のコードとして
筆者自身が示した二人称的な描写による場の措定と、
この引きの構図の相違について述べるのにとどめておく。
それは、場、及び、対象のこちら側に押し出された鑑賞者が、
二人称的な視点の場合には作中の特定の人物だが、
引きの視点の場合には、少なくとも場面の描写内の誰か、
としては特定されず、
読者、もしくはその引きの構図で始まる一定のシーンを徘徊する
複数の人物に共有されたまなざしとして、
或る意味で外在的な位置に保たれているという点に尽きる。
第四のコードとして示した俯瞰、仰角の構図と同様に、
第三のコードまでで示した一人称、二人称、三人称の
それぞれの区分とは異なり、
コマ割りとして切り取られる視線は視点人物によって保持されず、
何か他の外部、事件の引き起こされる公団住宅という場、
と対象の提示のもとに、外在的な位置から注がれているのである。

最後に、第六のコマの段組みの分類は、
奥行きを利用した構図として描かれる。
場合によっては強調線なども付加され、手前から奥へ
距離のある対象に視線の注がれるのを促す効果を付与されている。
このコマの形式は、
「童夢」においては二つの用途に当て嵌められている。
一つは、作中人物の移動である。
手前から奥へ、人物が歩き去っていくシーン、もしくは、
奥から、手前に、手塚さんが現れるシーン、など、
人物が場から場へ、移動していくさまを描写するときに
この奥行きは多用される。

奥行きの例1(©大友克洋)

だがここで注意しなければならないのは、
たとえば初めに岡村部長が現れる際の遊歩などは、
横長に取られたコマ内を右から左へ歩いて行くのみで、
奥行きをこちら側から向こう側へ、もしくは
あちら側からこちらへ、移動するようには扱われていない点だ。
これはあくまで筆者の主観だが、
奥行きを利用した移動が「童夢」の作中で描かれるのは、
公団住宅内の自殺者の出現、という、
捜査されるべき事件の本質に近づいていく時のみであり、
それを拡大解釈すれば、或る、
何か自身の把握できない情報を保持した「外部」と
対峙するときにのみこの奥行きは用いられ、
また、移動を扱っていなくとも、
正面切った人物との対話のシーン、
悦子とチョウさんの対峙に代表される、
事件の本質的な部分に正対した人物と人物の対峙のシーンにも、
その奥行を伴った構図は用いられている。
つまり、相手の自由な移動先を正面切って遮ることが、
最終的な悦子とチョウさんの力比べの終着点であり
(チョウさんや吉川は壁にのめり込まされる)、

奥行きの例2(©大友克洋)

逆にマンションの各通路の奥行きを利用し、
自分の思うままに住宅内の各住人の自殺欲求を顕然化させ、
歩き回らせることができるのがチョウさんの能力の本質なわけだ。
繰り返し、冗長になってしまうことをお詫びしたいが、
私はここで、この奥行きを利用した外部への移動とそれの阻止が、
コマの段組みの形式と、
作中のテーマの平行性を最も端的に表したものとして、
第六のコード進行として定置したい。

この場合、第四、第五のものとして示したコードと同様に、
視点が外在化しているとはいえないかもしれないが、
奥行きのある場を逃れ出ていこうとする特定の人物に注がれた視線は、
人物が奥に消え行くに従って
鑑賞者の位置は変わらぬまま「外在化」するし、
例えば悦子の場合、相手を屈服させる圧倒的な力として
その見つめた対象を外部へ押し出すような権能を持って
チョウさんや吉川と対峙するといえるかもしれない。

以上、見てきたように、私は、大友克洋の「童夢」を、
この私自身が示した六つのコード進行の極めて明示的に組み合わされ、
それによって、
自在にストーリーの展開していく物語として読み進めてみたい。
一人称、二人称、三人称、俯瞰、引き、奥行きという
六つの構図が示されるのは、
見開きに三段づつ、六段で構成されるコマの段組みごとである。
とは言っても、見開きの六段に、
わたしの示した六つのコードが一つずつ規則正しく並べられているわけでもない。

状況に応じて、コードは複雑に組み合わされ、
その組み合わされ方が徐々に変容し、
物語が展開されるのをこの先では概観する。
ここまででお分かり頂けているとは思うが、
著者の本稿での論述は、
段ごとのコマ組のみに焦点を当てた簡素なものなので、
一ページ一ページを、逐一考察していかざるをえない。
また、冒頭でも記述したとおり、
仮に以下で示すコマ組みの展開を読者の方に認めていただいたとしても、
その構図の組み合わせが何を表現しているか、という点については、
筆者自身の主観的な解釈による所が大きい。
ただ、コマ組みを概観した後に初めに戻って、
どういう流れで、何が描かれていたかという主題を分析すると
二度手間になってしまうので、
ページごとのコマ組みの分析と、その解釈は同時に行わせて頂く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コマ割りのコード進行: 大友克洋に捧ぐ「童夢」論作品内の実際の分析)
に続きます。

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