デヴィッド・クローネンバーグ「イグジステンズ」の感想と「Fallout76 trailer」への不安と期待

映画評論

何のこっちゃ、という記事タイトルですが、シネフィルWOWOWで見逃し視聴しただけです(1999年作品)。イグジステンズのネタバレを含みつつ、以下では大枠の「ゲーム」とはなんぞや、ってことを改めて考察してみたいと思います。

と言っても、VRの徐々に普及しつつある2018年現在からしてみると、まあ近未来の感じって言うよりは、もろに今のゲーム事情を映し出しているようでもある。まずはVIVEを顔面に装着して、みたいなね。ちなみに、私はこの作品のテーマの原型とされるヴィデオドローム、も他のクローネンバーグ作品も見ておりません。にわかです。

ただ、やっぱり一つ指摘しておきたいのは、映画内で出てくるゲームポッドとかいう今で言うVIVEみたいなの、これが非常に生々しい、っつうことですね。…いや、この生々しさは確かにVRでは出せないよね、っていうのを逆に提示しているのがやっぱり批評的、ってことなんでしょう。

実際、ジェニファー・ジェイソン・リーの脊椎の腰の上辺りに開けられた穴に触手っぽいのが入ってく感覚っていうのは、こればっかりはコイカツでも出せませんからね(笑)。当方、ジンコウガクエン2を初めとしたイリュゲーの大ファンではありますが、流石に体の任意の位置に開けられた穴に触手突っ込む感覚っていうのは、そりゃあまだこの先しばらくはVRが発展した後でないと再現するのは難しいでしょう。いや、マジで。

何がいいたいかと言うと、結局のこの手の映画のストーリー展開というのは、「さあ、目の前の映像はゲーム内の設定か、はたまた現実なのか!?」という、堂々巡りで進められていくのがテンプレだということは承知しつつ、最終的な着地点も含め、このイグジステンズはそうした「ゲーム的な」二者択一とは全く別の問題意識を孕んでいるということです。

視聴者は、そのことにまっ先に冒頭から申し上げているポッドの生々しさ、によって気付かされるでしょう。しかしながら、この映画の本質はその「ゲームの中の像として片付けきれない」身体感覚の延長としての内臓や器官のグロさ、を露呈する点にあるのではありません。むしろ、延々続くそうした両生類の四肢や解剖図の描写は、見事なまでに全て「振り」に過ぎないのです。

では、その振りが視聴者への効果を最大化しようとする本来の「オチ」とは何か、という結論に行き着く前に、この記事のもう一つのテーマである「ゲームが持っているはずの必然的にプレイヤーに与える効果とは何か」というテーマに話を迂回させようと思います。この迂回は、イグジステンズ、という映画にとっても1時間37分ほどの展開のほとんどすべてを使って視聴者に対して描写されなければならないものです。

この迂回を端的に言い直すと、「ゲームとは現実世界のカリカチュアである」、ということですね。ハンター×ハンターのグリードアイランドなど、この手のオンラインゲームをそのまま模したような世界設定の中をプレイヤーとなった視点人物が放浪する、という話はそれこそ枚挙にいとまがないと思うんですが、何れにしても大元の「本来の」ゲーム世界の中では、それが中世ファンタジー的なものであるにせよ、近未来SF風のものであるにせよ、現実の世界に起こっている政治情勢や、社会問題などへの遠回しの言及を含んでいるものがほとんどでしょう。

そうして見ると、かなり逆説的ですが、「ああ、リアルすぎてこれが本当に仮想のモノかが分からない!」という映画中のジュード・ロウの嘆きは、高品質なグラフィックボードを手に入れてしまった現代の我々には、あまりに耳慣れたものだとも言えると思います。そこには、「リアル」な世界があると同時に、予め批評的視点を含んだ「現実」に寄せようとする、製作者側の意図がはじめから内在しているわけです。

そこを前提とする場合、問題意識はさらに反転して、「現実そのものが数ある可能世界のうちの一つ、つまりはゲームのようなものに過ぎないのかもしれない」という視点も必然的に生まれてきます。

映画の展開と同様、論点そのものがかなり入り組んできましたが、さらに話を進めると、その「現実の仮想化」が脳内で行われた時になって初めて、むしろリアルな世界の一プレイヤーとしての自分なら絶対に取らないであろう行動や、権力者に対しての俯瞰的な態度、社会への底辺からの斜に構えた目線、などもゲーム内の仮定であればこそ、より有効性を伴ったものとして浮上してくる。

勿論、日本のSF小説に於いて上に述べたことの完璧な置き換えとなりうるのは伊藤計劃の「虐殺器官」なわけですが、「仮想世界の現実化」を可能にするデバイスが、視聴者側、もしくは物語の作り手側の脳内で「現実世界の仮想化の可能性」に行き着く時、そこには明確な批評性が、つまり、「現実世界の中で仮想的なものとして置き換えられないものとはなにか」という新たな主題が中心に据えられることとなるでしょう。

今回のクローネンバーグ映画の場合は、主にゲームポッドというデバイスのグロさ、によってその主題が補われていくことは前述したとおりです。

ただ、何れにしても、その身体感覚、や生々しさが効力を発揮するのは、「現実世界のほうがよりリアルな感覚を持っている」ことを、視聴者の側やゲームプレイヤーの側が了承したときのみなわけです。そこで話は、Fallout4の、今は公開中止になったゲームトレイラーの件に移ります。

かなり話を飛躍させるようですが、トレイラーに無断で曲を使用された(ユニバーサルとは、本人の許諾を得たときにのみ使用を許可する契約をソングライターの方の側は結んでいたようですが)このゼニマックス側とアーティスト側の間の問題は、Falloutというゲームをどう位置づけるか、という解釈の中で、リアルすぎるゲームのゲーム性、を問い質した「イグジステンズ」の視点とも直接関わってきます。

要は、「現実に起こっていることの方が悲惨(リアル)である」という前提を受け入れた時に初めて、Falloutの世界観は批評的な視点を伴ったものとして受容されうる、というわけですね。ベセスダが公開中止した当のトレイラー自体は、まだ普通に動画サイトなどで見れますので、年齢制限などに該当しない方は見て頂いた方が早いのですが、まあやっぱり残虐だし、手榴弾投げ合ったり、銃を明後日の方向いたまま気軽にぶっ放したりっていう光景は、ヒドイ、の一言に尽きると思います。

ですが、Fallout3をプレイしたユーザーにとっては、そのアポカリプス的な世界観が、自らの属する人類の手によって引き起こされた核戦争、の後のことだと即自的に理解されているわけです。だからこそ、その後に付け足されたVault以降の地上というのは、ある意味で置き残された部分に過ぎないと分かっているし、そこにある暴力や唐突な死も、すべてが終わったあと、だからこそ冗長なものとして残留したブラックユーモアだとも捉え直すことができる(あくまでゲームの中で、の話ですが)。

ゼニマックスを訴えたアーティストの方の場合は、今、私が上に述べたようなゲームそのもの批評性よりも、リアルな世界観の中での暴力の肯定、の方をより深く問題視したのでしょう。つまり、「現実の仮想化」という視点より、あまりにリアルな「仮想世界の現実化」の方を直感的に拒んだと言える。

↓(以下はイグジステンズの最終的なネタバレを含みます)

で、そう考えてみますと、上記のソングライターの方の身振りは、ほとんどそのまま、イグジステンズの結末でのジュード・ロウとジェニファー・ジェイソン・リーの行動と一致しています。

つまり、ゲーム世界そのものの否定です。「これもまだゲームの世界なのか」と、今度はその事件現場をダイレクトに目撃したプレイヤーの一人が呟きますが、映画自体の最終場面を「ゲーム」の中だと感じる視聴者はほとんどいないでしょう。なぜなら、どうしても「ゲーム化」できない要素として、製作者の意図を反映するように、ラストにゲームそのものを否定する実践、が定置されているからです。

今、目の前にある現実に対して、それがあまりに仮想化されたように見える世界だとしても、独立した意志を持ち、他愛のないNPCであるような我々の一人ひとりが個別の行動を取ること。そこにある責任こそが、ゲームの中では絶対に習得できないものとして言及されているのです。映画の中では、その「責任」に満ち溢れた行動をとった二人の男女は、ある種の狂信者のように視点の外部に捉えられますが、(この辺の撮り方もまたうまい)肝の座り切った役者の表情は、映画内の人物であることすら拒もうとしているようにも思えるほどです。

再度、Fallout4のトレイラーの方に話を移しますと、直前に述べたことを踏まえた上でもFalloutの懐が深いと思うのは、私の記憶が正しければ、3の場合は、確か実際にPCゲーム自体を揶揄するような視点も含んでいましたよね。そこはやっぱりフォローしておきたい所ですし、今回取り上げたクローネンバーグ作品と同調するような批評性も、間違いなく含んでいた、と思います。

「所詮お前がやっているのはゲームなんだよ!」っていう台詞を、プレイヤーはゲーム内ゲームの中で投げかけられるシーンがありましたから。いや、あれは衝撃的でしたね。まあ、所詮はゲームの話なんですが、(以下、無限ループ)

ゲームの中でゲーム自体を否定するような場面が実際にあって、それでも残虐性を伴うゲーム自体が批評的な意味を持つには、あまりに「仮想化されすぎてしまった現実」で起こっていることへのよりリアルな認識が必要であることも、また、そう云った視点を元に構成された世界観をWastelandが持っていたことも、Falloutのプレイヤーの方には了承して頂けることと思います。

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ここまでで、大体のことは語り終えましたので、最後に、一番初めの記事タイトルに戻りまして、Fallout76への期待と不安、ということなんですが、私個人と致しましては、やっぱりFallout3から4に移る過程で、今、上に述べたようなFalloutの批評性、というのは薄れてしまったように感じています。だとすれば、当のFallout76自体も、まだまだインフォメーションはありませんが、何かCo-opでヒャッハー、みたいなノリになっていないか心配する所です。

ただ、あの牧歌的なカントリーロードに乗って流れる美麗すぎる映像の中には、それでもやっぱり開拓されたアメリカ、そこにあった暴力への逆説的な批評性は保たれているような気もするんですね。

何れにしても悪趣味、と感じる人はいるだろうし、ある種の廃墟愛好家、すべてが崩れ去った状態にカタルシスを感じること自体、確実に不謹慎ではある。そして、ユーザーに売り込まなければならない手前、イグジステンズの結末のように物語そのものをゲームの存在自体の否定、という着地点に落とし込むわけにも行かない。まあ何が言いたいかというと、それでも何だかんだ期待している部分はあるし、昨今流行りまくっている勝ち残りサバゲーみたいにはならないでくれ、どこかにFalloutらしい、ベセスダらしい世界への批評性とシニカルさは残しておいてほしい、と要望を書き添えましてこの記事の〆にしたいと思います。

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