嶺井のリードとウメハラの波動拳、スティーブ・ライヒの音楽について その1

配球論、野球関連

何のこっちゃ、というタイトルかと思いますが、具体的には野球の配給論を語っていきます。ウメハラの波動拳、というのは、非音楽的な領域でシンコペーションを最も適切に表現しているような気がしたので。

まあ、シンコペーションそのもののシンコペーション、というか、決してループしないある種の規則性、の事例として、ライヒよりむしろジョン・フルシアンテのSAME、とかのほうが良かったかとタイトルを決めてから思った次第です。

さて、本題に入りますと、現在の野球の配給論というのは、解のない方程式のようなものに似ています。

様々な解説者やファンが、それぞれの状況を演算するのにふさわしい式と代数を構成しようとしますが、そもそもその式が正しかったのかどうか、という解の方は、その都度の打者との勝負の結果から逆算されるしかないのです。

よく結果論、結果論、と言いますが、ことキャッチャーの配球に関しては、初めから結果論しか要請されていない、というのが真実でしょう。

この状況は不毛です。なぜなら、仮に式そのものの計算過程が解説者やファンの頭のなかで誤っていたとしても、結果を見てから、いつでもそれを消しゴムで消し直し、さもはじめから自分の演算が正しかったかのように見せかけることが出来るからです。

そこで、このブログでは以下数回に渡って、少なくとも各打者に対してキャッチャーが
どのような配球パターンで以って投手をリードするのが最も打者を抑えるのに期待値が高いか、という式、を形作るための各項目を、全く一から新たに作り直したいと思います。

と、云いましても、野球というスポーツは皆様御存知の通り、予測可能な領域よりも予測不可能な領域から飛び込んでくる情報のほうが多い競技です。こと配球論に関しましても、仮にキャッチャーが完璧なリードをしようとしたとしても、そもそもピッチャーの側にそこに投げるコントロールがなければ話になりません。

また、これは後の方でも詳しく言及しますが、打者の読み球を外す、というベテランキャッチャーなら当然持っていて然るべき経験から培われた技術も、本稿の語るべき主題には入りません。

なぜなら、ピッチャーの投げミスと同じように、打者側の頭の中の読み、というのは、
その打者自身の頭のなかで即座に変更可能ですし、そこでどのような変更が一球一球行われたか、について、外から全く検証しようがないからです。

ですからこのブログで筆者が論及したいのは、全くファン目線からの、最低限キャッチャーに要請されるべきリードの基本、という範疇に留まるでしょう。

そういった基礎中の基礎、ですら、試合付きの解説者によってまちまち、というのが現状だと思うからです。

そこで、話はこのブログ記事自体のタイトルに戻るのですが、上に述べたキャッチャーの配球の基礎論、を展開するに当たり、わたしはある種の時間感覚、への論及が不可欠だと考えます。

どういうことかと申しますと、よくテレビなどで見かける九分割の配球チャートを想像していただきたいのですが、このチャートの場合、特定のコースへ、どのような球種を投げたか、ということはよく分かりますが、それがどのような順番で投げられたか、という点については、(勿論番号の伏せられたチャートも存在しますが)あまりイメージを膨らませるように構成されてはいないように感じます。

打者の得意なコース、不得意なコース、という表現は特に顕著で、この球種を打つのが得意、このコースを打つのが不得意、と云った言及のされ方はしますが、カーブの後のストレートを打つのが得意、とかストレートの見せ球の後のフォークを打つのが不得意、といった表現のされ方は、あまり一般的ではないでしょう。

ここに、配球論の基礎、を考える上での鍵があります。

配球とは、前に投げた球から、次に投げる球までの間に、ピッチャーとキャッチャーの間で取り交わされる約束のことです。

ですから、一球一球の「間」にどのようなつながりがあるのかが最も重要になります。
その際、繰り返しになりますが、ピッチャーの投げ損じ、打者の読み球の変更、などといった不確定要素はすべて排除されます。

勿論、実際の試合における運用に関しましては、その不確定要素をいかに読み込んで配球を織りなすか、と云った点が捕手の腕の見せ所、だということは重々承知しておりますが、それは基礎論を形作るための本稿の主要な論点ではありません。

一度、記事を〆るためにまとめますと、このブログ上の連載では、キャッチャーが前に投げられた球を受け、次の球を投手に要求するという連続的な行為の中で、どのようなリズム、打者の感覚を狂わせるための、「配球」が必要なのか、という点について繰り返し論及していきたいと思います。

空間的に、どのコースが得意、とか苦手とか表現する代わりに、どのような順番で、相手に予測を的中させることなく球を配っていくか、という連続的な時間について言及します。

論より証拠、という奴で、冒頭に戻って、ウメハラの波動拳とかライヒ、ジョンフルシアンテやジム・オルークの音楽、最近で言えばMaison book girlとかですかね(汗)、
まあ何でもいいんですが、そういったものを見ていただければ、なんとなく自分が言おうとしてることがイメージして頂けるような気がしてます。

嶺井がそういったリズムでリードしているかはともかく、次項からは具体的な配球の組み合わせについて、いかに相手に読まれないか、ループしないリズムを構成するかという方法論について、具体的に記述していこうと思います。

配球論その2へ

コメント