時間を認識しない映像理論家「スタン・プラッツァー・エッカ」

Mimesis of Frautal

VR1090年~1130年(故人) 男性

スタン・プラッツァー・エッカは、パルカンテ諸島に生育していた先住ヴィジョンの生き残りである。末尾のエッカは彼がパルカンテに居たときの単独名であり、一般には短縮してスタン・プラッツァーと呼ばれる。

ディレリアの初代王であるマシス・カヴァラの時代から、パルカンテに住む時間認識を持たぬ人間としての先住ヴィジョンは彼らの持つ記憶=投射能力(死ぬ直前の記憶を死後も頭蓋骨に撮りおき、再生できるというもの)のために縮れ波の海を渡り、大陸に移送され続けてきたわけだが、だからといって彼らが、「怨讐」の念に捕らわれることなどは決して無い。

現在では彼らと手話によるコミュニケーションや、彼らの書く象形文字の解読なども進み(これらのことが本当に時間認識無しで成立するとすれば)、驚くほど従順な調子で、それこそ記憶=投射能力のフロウタールの圏域に入ってからの発揮が自身の使命だと割り切ったように、ディレリアのメルネスへ向かう往復船に乗り込む者も存在するのだという。

そのうちの一人が、スタン・プラッツァーだった。彼は、エスクケイルの南にあるネイン砦のヴィジョンの収容所(実際にはむしろ保養所に近い)にまで進んで赴くと、居住区周辺の草花や鳥のさえずり、蝶の穏やかに舞う様や雲の移ろう空などの様子を、一つ一つ記録し始めた。

勿論、如何に時間認識を保持しない先住ヴィジョンの末裔と言えど、記憶を頭蓋骨に残し投射できるのは数分から数時間の間と決まっていたので、そこで彼が捉えた全ての風景が「投射」の対象として現在の我々にとって鑑賞可能なように残されているわけではない。ただ、前述した手話と象形文字に置いて伝達された自身の人生に与えられた行く末を、全て活かしきろうとするように、スタン・プラッツァーは日々の(彼にとってはこれはただ一瞬のことなのだろう)風と天候の移り変わりを観察し続ける。

一方で、ディレリアのエスクケイルに本拠を置くザン教の投声庁の規定では、既に先住ヴィジョンに対しては厳重な保護政策が取られており、まず、パルカンテに住む者のうち、移住を希望しない者は島に住み続けられるし、また、仮にネイン砦近くの保養所に移住してきた場合でも、本人が望めば年に二度、フロウタールの特定の地域に旅行することすらも可能であった。

そして、「世界」の有り様を存分に瞳に映した後、どこかのタイミングで自身の死後に残すべきと運命づけた対象に出会い、平均40年程度と言われる人生の終わりに、「被写体」を存分に角膜に写し込んだまま、ヴィジョンは記憶=投射能力の発揮のために宿命付けられた生涯を閉じていく。

ただ、他のフロウタール人民と同様に働く必要すらなく(ネイン砦の周辺ではむしろ、少数のヴィジョンの生活環境を維持するための他のディレリア国民を含む「経済圏」のようなものができていた)、平穏を約束された数年間、十数年間を、無為に過ごしてしまう青年も多い中で、プラッツァーは他の先住ヴィジョンの人間たちとは異なる、2つの際立った「行動」に出た。

その一つは、時間概念のない言語としてのパルカンテの象形文字を使い、彼が仮住まいの庭園に移ってから、自身の生きる死ぬ直前までの目的としての映像記録の「理論」を、風雨にさらされたテラスの欄干を見つめるたびに湧き上がる心象を折り重ねながら、日々、記録し続けたことだった。

もう一つは、これは彼自身が時間のない一秒の横溢した空間の中で「予期」したことではなかったのかもしれないが、彼の身の回りを世話してくれる給仕との「恋愛」だった。時間を認識し得ない者と、時間の中にしか生きられない人間との恋。それが一体どのようなものであったかは、プラッツァーの瞳の中に映る自身の像ですら観察しうるほど彼の間近に居た、当の給仕本人の脳にしか理解し得ないことでもあろう。

だが、一方で、完全に映像の外部に置かれてしまったように見える我々にも救いがある。なぜなら、そうしてプラッツァーが彼の給仕との間に愛を育み、映像理論を書き連ねていくうち、彼自身の人生の最後の被写体に選んだ対象とは、他ならぬ、彼の愛した給仕と、もう一人、愛された給仕のお腹の中に居た(二人の)赤ん坊だったからである。

「オブゼライト」と呼ばれるスタン・プラッツァーの書き記した映像理論と、「エッカ」という彼のパルカンテ時代の単独名の付された頭蓋骨による映像の投射(即ち、彼が最後に見たもの)の双方を幸運にも視聴できた観衆は、この、彼の撮影による、彼の恋人の出産映像こそが鑑賞しうる限り再考の芸術作品だ、と口を揃える。

彼らの証言する像の中では、窓に付いた水滴や、新たな生命が生まれでてくる瞬間の喜び、風呂桶に注ぐ日光の眩しさなどがプラッツァーの過去に見た風景の全てと幾重にも重なり、細かく配られる視線の往還の先に、愛を注ぎ込んだ女性の寝そべる姿として、端的に定着され続けていくのだという。

まさにその一時間数分ほどの上映の中に、スタン・プラッツァーは生涯の全てを賭け(新たな生命の誕生とともにその記録は終わり)、そしてその像を鑑賞するべく残された我々は、光の横溢と瞬きとともに訪れる闇の反復の内に、「オブゼライト」に於いて彼が遺した映像理論の実現を見る。

「記憶はすべて換喩である」。パルカンテの象形文字で、「オブゼライト」の冒頭にはそう記されている。この標語が実際の「エッカ」の映像の中に適切落とし込まれていると感じるかどうかは、結局の所、視聴者の捉え方次第なのだろう。

(かつての)一日の行動の優先順位

1 日々を観察する

2 映像理論を構築する

3 妻と出会った喜びに触れる

4 素早いパンやティルトを試す

5 撮影をシミュレートする

6 記憶を呼び覚ます

SPECIAL
2746759
闘争華美飽食享楽不寛勤勉渇望
15
空間時間
51
保持スキル記憶投射

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