ネストル・ピタナに破壊されたW杯決勝:ペリシッチのハンドは妥当か (モドリッチの落胆に捧ぐ)

サッカー関連

アラン・シアラー、リオ・ファーディナンド、イケル・カシージャス、ロイ・キーン、ジェームズ・キャラガー、など、主にイングランドのサッカー界の各OBから続々と異論の寄せられているあの「問題の」PKシーン。

本稿ではVARそのものの活用方法、サッカーにおける主審、副審の意義、も含め、問題を広範に論じてみたい。(ちなみにブログ筆者はクロアチアファンです。100%の客観はありえないとも考えられますし、クロアチア寄りな視点になってしまっている可能性のあることを、初めに指摘しておきます。それでも不快でない方のみ、続きをお読み下さい)


「W杯の決勝で、PKが試合を決定付けてほしくなかった」
「あそこでPKを採るのは、サッカーを知らない人間」
「あれを意図してやったとしたら、ペリシッチはとんでもない反射神経だ」

という各メディアの意見のある一方、

「意図したかどうかは関係なく、手を広げて当たっているのだからハンド」
「もしあのままボールがすり抜けていたら、フランス側の決定機になっていてもおかしくなかった」
「VARを見た上での主審の判断なのだから、尊重するべき」

などのSNS上のコメントもあり、多様な議論の展開されている本件ですが、問題をさらに複雑化させているのは、そのさらに手前、フランス側の一点目の得点のきっかけとなったフリーキックに関しても、グリーズマンの側のダイブが疑われていることによります。(当然、この場面はVARの対象ではないため、主審の独断によってファウルを取っている)

実際のその場面にしても、確かに、ブロゾビッチとグリーズマンの接触はごく僅か(もしくは皆無?)でした。しかも、それをかなり近くで主審が見ている。なおかつ、(主観ですが)試合序盤はクロアチアがフランスを圧倒的に押し込む展開だった。その序盤でグリーズマンに「騙された」主審の判断が、試合の流れを変えてしまったのではないか、というまず第一の「疑わしい」判定が初めにあったわけです。

で、その後クロアチアの側が予め全てを完璧に取り決めていたような美しいFKからのフォーメーショニングで一点を返し、再び試合はいい意味で拮抗し始めたかのように見えたのですが、前半37分のあのPKで、クロアチアの側は(ファンを含め)一点目を失ったのと同様のやるせなさ、理不尽さを抱えながらの観戦、試合運びとなってしまいました。

後半に3点目、4点目が入ったのだから、どちらにしろフランスが勝っていた、とか、クロアチアは中3日、フランスは中4日であり、延長戦をクロアチアが戦い続けていたことや交代要員も含め、PKの有無に係わらず圧倒的にフランスが優位だっただろう、という意見は今回は考慮いたしません。

なぜなら、後半以降のフランスのカウンター作戦がハマる展開は、あの2点目のPKの判定、もしくはあの一点目のファウル判定がなければ、あり得なかったと考えられるからです。

その点に関しても、フランスファンの方の側からはもしかしたら異論があるかも知れませんが、ここではひとまず、あのPKのシーン、さらにはネストル・ピタナ主審の一試合を通した判定の傾向について、まずは記事投稿者の主観を語らせて頂きます。

ただ、他方で、問題をさらに複雑化させるようで申し訳ないのですが、クロアチアの側がFKで一点目を返す過程でカンテにイエローカードが提示されたシーン、あのシーンも、接触そのものはわずかに見える。

しかしながら、クロアチアファンであることを繰り返し述べてきた私自身も含め、多くの観衆は、(この印象も私の主観ですが)あの場面で後ろから行ったんだったらファウルを取られても仕方がないよな、と、(実際に僅かだが足と足が交錯している)試合の流れ、クロアチア側の攻撃の流れに沿ってあそこでカンテに与えられたファウルそのものは、妥当性のあるものとして理解したようにも思えるのです。

何が言いたいかと言うと、要はサッカーにおける主審の判定というのは、たとえば野球においてホームランか、ファウルか、アウトかセーフかを判定するようなものではない、ということです。だから、今回のVARに関しても、

1 ゴールかどうか
2 PKかどうか
3 直接レッドカードかどうか
4 選手誤認

という、ゴールそのもの、試合そのものの流れをを決定づけるような場面に限定されたわけであり、(当記事では上の内容について、Wiki内の ”サッカーの審判補助システム” の項を参照しました)その運用は、できるだけ主審の側の主観(つまりは試合そのものへの大局的な判断)が入らないで済む場面、
即ち、
テニスやバレーボールにおいてインかアウトの判定を下したり、野球においてアウトかセーフかを決めるやり方と同様の状況、運用方法を模倣してルールそのもの、施行そのものが決定されたことは容易に想像できるでしょう。

ただ困ったことに、サッカーの場合は、そうして「厳密に」判定できる領域よりも、主審の大局的な判断に委ねられて試合の運ばれていくことの方がむしろ一般的で、尚且、より重要なのです。

シンプルに言い直せば、ペナルティエリア内での判定を厳密に下していったら、一試合のうちに必ず数回以上のPK判定が起こりうる、ということです(笑)。ユニフォーム引っ張り合ったり、お互いに見えない所で体小突きあったり、無意識を装って相手に肘を入れようとする行為もピッチ上では十分にありうるわけですから。

ただ、その全てにファウル、の判定を下す審判はいない。つまり、ある程度、お互いにやりあっていることのうちで極端な悪質性や、サッカーそのものを抑止しようとする意図が見受けられないものに関しては、一定程度目をつぶりながら主審は判定を下している、ということです。

当然のことながら、VARはこの点を「判断」することができません。私も含め、視聴者の側はどうしてもこの部分を誤解してしまいがちなのですが、VARは主審の「判断」を助けるための助言、その助言の基となった「事実」を映し出すだけであり、判定そのものを予め決定づけるわけではないのです。

あの、ペリシッチのハンドのPK判定の直前、ネストル・ピタナ主審の映像確認にとても長い時間がかかったことが、その何よりの証明であるでしょう。主審そのものが、迷っていたのです。では、ここでネストル・ピタナ主審が求められていた「判断」は何かと言うと、ペリシッチが空中姿勢の中でボールに手で触れてしまった、その触れ方が厳密な意味でルール上のハンドに当たるのか、という「判定」の部分ではなく、

むしろ、W杯決勝という舞台で、
一対一という均衡した展開の中、
前半33分過ぎに、
前の選手の影から急に出てきたように見えるボールに対し、明らかに意図して手を出したようには見えないが、ただ確実に手に当たってはいる場面において、ハンド、という判定を下すべきか、という、サッカーを一試合裁くこと、そのものの中に宿っていると言うべき、大局的な「判断」の方だったのです。

この点を、長年サッカーという競技に関わってきた実績のある審判なら、本来なら自覚していたはずです。(当然のことながら、ネストル・ピタナ主審がクロアチアとフランスに対してどのような心象を抱いていたか、などという内心の部分は知りようがないし、考慮されません)。

ですが、あの場面で、ハンドの判定を下してPKを採るべきか、という彼の中の煩悶の数十秒に渡る内容を推測してみるとき、そこにはVAR、という制度が今大会採用されるに当たり、図らずも浮き彫りにしてしまった「判断」と「判定」の間の齟齬、という問題が横たわっていたのではないか、とも思われるのです。

つまり、ネストル・ピタナ主審は、あの状況で、試合を決定付けてしまうようなPKを与えるべきではないことは、今までの経験上の判断力から、理解していた、しかしながら、何度も何度も、目の前で明確にボールが手に触れる瞬間を映像として映し見るたび、あたかも暗示にかかるように、事実として手に当たった、という判定の方を重視して考えるようになってしまった、というような流れです。

上記はすべて推測に過ぎませんが、あの時間、モスクワの大観衆の前で映像そのものを観衆自体が確認可能な状況の中で、フランスの側の選手の抗議によってVARに入ったという過程も含め、ファクト、として、目の前に映し出されていた映像に抗うことは難しかったのではないか。

クロアチアの側の選手たちは、VARに入る前に、そうして確認の対象になる事自体には
まるで異議を唱えていないようでしたが、それもそのはずで、まさかあの状況で、あのプレイに対してハンドを取られるとは夢にも思わなかったのでしょう。ただ、あくまで私の推測ですが、VAR、という本来なら主審の「判断」を助けるはずの制度が、映像、というメデイア性の強度によって、一つ一つのプレイに対する厳密な「判定」の方の比重を、審判の大局的な判断の領域に対して、より強く思考させる形で影響を及ぼしてしまった、とも考えられうるわけです。

というわけで、コーナーキックの判定は覆り、PKとなりました。で、これ以上ネストル・ピタナ主審に関して書くと不必要な詮索の域に入ってしまうと思われるのですが、彼は、比較的ファウルやイエローカードの判定に対して厳しい態度で臨む審判として知られていたようです。(元々の職業が役者だったことなどは、今回は隅に置いておきましょう)

いずれにせよ、前・後半を通じてフランス、クロアチアの双方の選手がファウル判定に対して彼のもとに何度も駆け寄って確認を求めていた光景も含め、円滑に試合の流れを進めさせていくのをジャッジングの主眼に置く審判というより、厳格な、どちらかというと黒子であるよりも舞台上の中央に陣取って強固な「判定」の元に選手を裁定しようとする審判だったことも、一試合を通して観衆の側が抱かざるを得ない印象だったでしょう。

何が言いたいかと言うと、そうした彼自身の傾向とVARという制度そのものの問題点が、フランス側の縦に早いカウンターサッカーと、クロアチア側の両サイドをワイドに使ったビルドアップ、という本来ならサッカーファンが楽しむべきだったW杯の決勝という試合の内容を、度重なるファウル判定と試合の中断によって大きく歪めてしまった、ということです。

この点については、勿論フランス対クロアチア戦に限った話ではなかっただろうし、各国をそれぞれ応援していたファンの方ごとに、あの場面の、あのPKやFKはおかしい、と言った指摘がありうると思います。実際、今大会はそう云ったセットプレイからの得点の多さがクローズアップされた大会でもありました。

ただ、問題なのは、やはりVARという制度そのものがどう運用されたか、という点ばかりではなく、サッカーという、純粋な目に見えてわかる判定の領域より、相対的な、審判が試合そのものを、全体を通してどうコントロールしていくか、という判断の部分が大きく働く競技性と、他のスポーツが運用しているようなビデオ判定の仕方が、どう接合されるべきか、という、総合的なVARそのものの完成度(及び現時点での未熟さ)の方でもあるのでしょう。

上に述べた部分の、(異論はあるかも知れませんが)、ダイレクトに生じた最後の場面、もろに問題点の出てしまった瞬間こそが、あの、ペリシッチのハンドの場面だったのではないか、と私は考えます。

「ファウルじゃなかった、PKじゃなかった」
と、
ハーフタイムの間に審判に抗議したとされる、モドリッチの落胆は無理も無いところでしょう。カンテのイエローの場面も含め、もう少し試合を別のやり方でコントロールする別の審判がこの試合をジャッジしていたとするなら、4対2というオープンなスコアではなく、前半終わって0-0のような、硬い展開の中での白熱した攻防もあり得たはずです。返す返すも、その点が惜しい。どうせなら、FIFAの最優秀審判、みたいな人が、W杯の決勝くらいは主審を務めて頂きたいものですが、如何なもんでしょう。

と、ここまでで、VAR,及びネストル・ピタナ主審に対する批評は、だいたい語り尽くしましたのでひとまず終えたいと思います。で、この先は、98年フランス大会からの20年来のクロアチアファンである筆者の考える、クロアチアサッカーの魅力、今後の展望などを語っていきます。クロアチアに興味のない方には無意味な内容ともなっておりますので、そこを了承して頂ける方のみ、さらに先へお進み下さい。

………………………………
いやあ、しかしながら、本当に素晴らしいサッカーを展開してくれましたね!今回のクロアチアは。上の記事の途中でも書きましたが、両サイドを広く使った攻撃の組み立てが素晴らしかった、と思います。

そう考えると、デンマークにしろ、ロシアにしろ、イングランドにしろ、決勝で当たったフランスやその前のフランスに破れたベルギーも含め、今大会は3バックとは名ばかりの5バック、ハイプレスすら掛けないディープカウンターを採用しているようなチームがほとんどでしたから、ラキティッチとモドリッチが常にハーフバックの位置にまで下がり、一からボール供給をしていくクロアチアの「遅攻」及び、愚直なまでのゲーゲンプレッシングは新鮮に写りました。マジで、運動量半端ない。

ボールを奪ってから、スピード感を持ってゴールに迫ろうとすれば、それは基本的に全て「カウンター」と呼ばれるわけですが、そのカウンター一つとっても、クロアチアの場合は常に両サイドの幅を広く採る、という特徴があると思います。これは、間違いなく98年のレジェンド世代からの伝統であるでしょう。

今大会に関しても枚挙に暇がありませんが、(イングランド戦のペリシッチの得点、ヴルサリコがクロスを上げる前にさらにもう一つサイドチェンジしていたラキティッチのパスなどがその代表でしょうか)これは、5バックなどでスペースを埋め、攻撃そのものを跳ね返そうとする相手に対し、ポジショニングと視界の変更を常に迫る、という意味において、特に今回のロシア大会に於いては重要な構成要素だったと思います。

で、当然のことながら、そう云ったロングボールを駆使したサッカー、長短のパスを織り交ぜたダイナミックなサッカーというのは、技術の裏打ちがなければ出来ませんね。ロングボールの供給をミスしたらすぐさまカウンター喰らいますから。

ただ、そこに躊躇はない。勿論、ラキティッチとモドリッチ、という究極のディープラインMFとレジスタを擁していたクロアチアならでは、というのは言うまでもありませんが、ブロゾビッチや他の選手もロングパスが非常に上手かったと思います。

さらに回想すると、最後にフランスに破れたことも含め、今大会はなんか20年前とオーバーラップするような場面も多く見受けられましたね。(フランス大会ではビリッチが開催国であるフランスからブーイング受けましたが、今回はイングランド戦でヴィダが受けてましたしね(笑))

選手層が薄いことも、不動のボランチとしてのキャプテンがいることも、期待されていたFWが一枚使えなかったことも、一つ一つの得点がヴァリエーションに富んでいることも、全く20年前の過去を投影したデジャブを見ているようだった。

20年前は、最後、ボバンの体力が持たず、(実際怪我だったかどうかは今から知る由もないのですが)惜しくも決勝の手前で敗退してしまったわけですが、今回の経過に対するその不吉な私の予感は当たらず、モドリッチは最後まで延長線を含んだ各試合を戦い抜き、それでも最後はやはり20年前も破れたフランスに負け、準優勝となってしまった。

ただ、20年前と決定的に違う点は、今回のチームが、とにかくハードワークする、且つ「汚れた」プレーを全くすることのない、ラキティッチ曰く「すべての人が、僕らのフットボールに恋に落ちた」ような、魅力あふれるチームだったということです。

いや、ボバンの世代もめちゃくちゃ格好良かったですが、あの世代はもう少し「老獪」でしたからね。毎試合試合巧者ぶりを爆発させていた20年前の各メンバーとは違い、今回は、誰しもがこのチームが勝ちに値する、と納得させるような運動量、衰えることのない攻撃への意思と統制を持ち合わせていた。

で、ちょっと穿った見方をすると、グリーズマンのダイブの件ね。私自身、上で散々批判しているわけですが、決勝の試合終了から少し経って考えてみると、クロアチアファンとしてあまり大きなこと言えないな、と思うのは、20年前のW杯フランス大会の決勝トーナメントのドイツ戦、確かスーケルもダイブっぽいのありましたね(笑)。まあ、あれは相手側のDFが完全に足に入ってましたが、それを避けようとするスーケルの倒れ方がまた上手い。審判のレッドカードを誘ったような所もあったでしょう。

…って、いや、そっちの件はそっちの件でまた議論の余地があるのかも知れないですが、尤も、もう少し時間が経てば、今回のグリーズマンの件も、ペリシッチのハンドの件も、サッカーの一部として理解され、許容されないながらも受け入れられていくのでしょう。ただ、今回の場合は、VARという新制度との絡みもあり、より深く考察されうる、というだけの話。

で、ここから先は、記事執筆時(2018年7月17日、即ちロシア大会の決勝が終わった直後)からのさらなる推測、希望的観測になるのですが、若干、決勝の悲劇を明るめの調子で書いているのは、クロアチアファンにとってのある種の喜びとして、これ、モドリッチまだ代表引退しなんじゃねえかな、っていう予感が芽生えてきたからです。マンジュキッチにしても、もしW杯で優勝していたらそれが有終の美、となっていたかも知れませんが、今回のこのままの結末で終了、というのはあまりにも悔しすぎるでしょう(他ならぬ、本人たちが一番)。

ついでに一つ付け加えると、決勝でのマンジュキッチのあのゴールはロリスのミスではなく、マンジュキッチのテクニックね、完全に。イングランド戦のピックフォードに対してもやってましたが、利き足が左の選手に対して、わざと逆足使わせるようにボール追ってるから。それで利き足側に切り返そうとした所を、見事にかっさらわれたというのが、決勝でのあの場面だったわけです。

と、話が逸れ過ぎましたが、もしかしたら二人共次のEUROまではやってくれるんじゃねえかな、というクロアチアファンの筆者による完全な希望的観測です。それを最後に記したかった。いや、それで決勝まではいけないとしても、因縁の相手、としてのフランスとどこかのタイミングでもう一度当たって、今度ははっきりと白黒つけてほしい。

勿論、若手の選手層の厚み、ベテランの年齢などを考慮すると、両チームの差は開いていく一方かも知れませんが、それでもまだモドリッチが現役であるうちに、両チームの大舞台での再戦を見てみたい。喫緊では(と言っても二年後ですが)それがEUROであることに疑いはないし、まあクロアチアはコバチッチが急に覚醒でもしない限りかなり分が悪いのも確かでしょう。(プリシッチがクロアチア代表を選んでくれていたら全く別の話にもなっていたかも知れませんが…、いや、俺、ドルトムントファンですけどね)

って、書き出すとキリがないのですが、ひとまずこの辺にしときます。フランス対クロアチアというW杯での再戦自体が、二十年の時の経過にまたがった話でもあり、この辺は本当に、長い年月を経るからこそ、重みがさらに増すとも言える。何にしても、一つ、好きになるきっかけを持ったチームに対してだったら、どんな機会や視点を利用してでも、ファンとしては応援して楽しまなきゃ損ですよね。というわけで、最後に長い振りを一つ入れておきます。

ではまた、二十年後に!(笑)。

コメント