「Death stranding」と「虐殺器官」:3時間で挫折したプレイヤーの感想

CRPG関連

コジマ作品はプレステ時代のメタルギア以来、約25年振り。愛がなくてスイマセン。

注:表題にもした通り、ブログ筆者はこのゲームをクリアするまで行っていません。ストーリーの結末だけは気になったのでネタバレサイト・及び解説動画で見ました(笑)。ただ、一般に言われているこの作品の評価と、開始わずか3時間ほどの自分の雑感が決定的に違っていたので、備忘録的にこの記事に書き留めている、その程度のものです。

記事の特性上、表題の2作品、Death strandingと虐殺器官に関するストーリー上の展開への言及は(わずかですが)避けられませんので、その2作品のいずれかをまっさらな状態で楽しみたい方の閲覧はお控え下さい(以下は、STEAM版Death strandingへの感想です)。

また、Death strandingのストーリー部分に関する理解は上に記したようにネタバレサイト・動画を見ただけなんで完全に間違っている可能性もあります(いや、そんな記事書くなよ、と思われても仕方がないけど、書きたいこともあるので)。

1 全体への評価

で、結論から言うと、何か各種批評サイトでのコメント欄とかブログ記事を見る限り、「ゲームとしては優れているけれども映画としてはイマイチ」という意見と、「映画的なストーリーはとても優れているけれどもプレイ体験の一部に不備がある」という、相反する2つの意見にこのゲームの評価は集約されているように感じるのですが、私の感想は全く異なります。

個人的には、「ゲームとして決定的につまらなく、そのつまらなさがストーリー上の欠陥に直結している」。ざっくり言ってこのような印象を持ちました。

映画的なストーリー描写と、ウォーキングシミュレーション、と称されるゲーム部分は、それぞれ独立に評価されるようなものではなく、むしろ完全に平行していて、全体として極端に退屈であり、駄作である。これが端的な私の意見です。

2 NPCの不在

と、主観ばかりを垂れ流していても仕方がないのでもう少し具体的に述べていくと、映画部分とゲーム領域の双方に跨った誰の目にも明白な欠陥は、上記、NPCの不在によってある程度説明できると思います。

勿論、この仕様自体は製作者側によって意図されたものである、と考えられますが、その「繋がり」を断たれた世界観の提示が、予定調和的でプレイヤー側に全く自由度を与えない、一方通行的で直線的なゲーム体験を露呈してしまっているようにも見えます。

もう少し詳しく述べる前に一つ付け足しておくと、このゲームのイベントムービー部分、というのは、もう完全に映画なんですね。たとえばElder scrollsやFalloutのように、ゲーム内に出てくる(関われる)NPCがシネマ部分に取り込まれている、わけではなくて、カメラワークも含め、すべて予め用意された既存のムービーがそのまま再生される。

だから、よくあるPCgameのティザートレイラーを見て、「なんだゲーム部分とはぜんぜん違うじゃねえかよ」と呟かれるようなPCgameあるあるは起き得ません。なぜかと言うと、ゲーム内のイベントシーンそのものがトレイラーと同じだからです。

そして、それらNPCというのは、最早一般的なPCgameにおけるNPCという呼称には全く当てはまらない存在です。その理由は、実際のゲーム部分、プレイヤーが移動可能なオープンワールドの中では干渉できない、という点にあります。つまり、コンパニオンにして世界を連れ回したり、場合によっては敵対したり、意図せず殺害してしまったり、といった有り得べき幾つかの可能性が、初めから放棄されているのです。

彼らは、ゲーム内の所定のチェックポイントで再生される「ムービー」の中にしか存在しません。ここにまず初めに指摘されるべきNPCの不在、が措定されています。

実際のプレイ体験に即して言うと、これらの特徴は、圧倒的なやらされてる感、一本道感、に結びつくと思います。というか、STEAMのタグなんか見る限り、このゲームは「アクション」であり、「アドベンチャー」であるわけで、RPG的な没入感とか自由度は必要ないのかも知れませんが、「目的地にたどり着くまでの経路・方法はあなたの自由です、その先のストーリーは全て決まっています」。という製作者側からの指示が明確になった時点で、わたしはこのゲームを投げ出してしまいました。

正直、「阿呆やな~、そっから先が面白いんだよ」、という数多の意見を参照して、もう少し粘ってみようかとも考えたんですが、いずれにしても「指示」を一方的に出されて、それに従うだけ、というゲーム設計は個人的には合わなかった、と思います。やっぱり、サンドボックスとかシミュレーション、CRPGの世界的名作に触れていると、一部のキャラクタが世界(ゲーム内オープンワールド)のシステムから疎外されて、特権的な位置を保ち続けていられる、というゲーム設計は退屈に思えてしまうんですよね。

3 民衆の不在

そして、それらNPCの不在というのは、ゲーム内のお使いクエストの一般的な意義をも捨て去ってしまっているようにも見えます。

「Death stranding」に見舞われたアメリカでは、ストーリー上重要な意味を持つキャラクタたちとは別に、プレイヤー側が関与できる、数多のNPCや勢力、ひっそりと荒野に街を作り暮らしている、都市住民というものも全く姿を表さない(シェルターに隠れ住んでいる)らしいんですね。

いや、ここの設定は、それこそコロナで分断された現代の我々の世界のように、できるだけ非接触のコミュニケーションしか取らないようにしている、と考えればやけにリアルである、とも言えますが、この点がゲーム内に及ぼす影響としては、クエストの成果が量的にしか評価されず、継続的で質的な変化を世界に与えているような実感に乏しい、という特徴に繋がってしまうと思います。

正直、この点がちょっと、私の事前のゲームに対する期待感から逸れてしまっている部分ではありました。冒頭から述べている通り、わたしはこの作品を開始数時間で投げ出しているんですが、EPIC専売が終わってSTEAMで発売されるまでの一年間、敢えて事前情報も入れずに密かにワクワクしていたのは、このゲームがKenshiやFallout4のような拠点構築要素を含んだ、そしてそれによってストーリーを動的に変えていけるような、そんな神ゲーを想定していたからなんですよね(いや完全に俺の妄想でスミマセン)。

配達経路のつなぎ方で、各地の勢力との関係が変化していき、それによってストーリーラインも全く異なってくる、とかね。実際にやってみると、全く逆のゲームでしたが。どっちかっつうとよろけながら歩いたり、不可能そうに見える経路をどう進むか考える、という意味では、あの超ミニマルな壺のゲーム、に近いんじゃないか。

勿論、それ自体に中毒性がある、という意見を私は全く否定しません。ただこちらの「Death stranding」が大作ゲーム風にして作られ、相応のストーリーラインと世界観を保持していることを期待されるなら、やはりここまでで述べてきたような「NPCの不在」、「民衆の不在」、つまりはプレイヤー側が動的に世界に関わっている、という実感の乏しさは致命的である、と考えられます。そして、敢えてそれらを初めから意図されたものとして評価するとすれば、その「他者性の不在」、を含めて論じられなければならない、と言えるのではないでしょうか。

4 他者の不在

そこで付け加えると、緩く繋がる、と表現されるオンライン要素にも、上記、ムービーの中にしか存在しないNPC、やゲーム内に初めから不在のままの民衆、という2点に直接関係するようなシステム上の特性があります。

STEAMの評価コメントや情報サイトのユーザーの皆様の声などを見る限り、「Death stranding」というNPCの存在しない静謐なゲームの世界内には、むしろプレイヤー同士の緩やかな繋がりがある、という点は、このゲームの性質としてよく指摘される部分ではあるでしょう。

実際のプレイ上では、配達経路をつないでいくのに必要なオブジェクトなどを他プレイヤー用に置いておき、オンライン上で相互に使用できる、という仕組みなんですが、正直、そこで提示される他プレイヤーとの共存というシステム設計も、むしろ現代の我々の「繋がり」を作ることの下手さ、拙さ、過度に遠慮がちなコミュニケーションの特徴を顕しているように(個人的には)感じられてしまいました。

どういうことかと言うと、たとえば「緩く繋がる」というワードはDark soulsのオンライン機能を称するときによく使われていたと思うんですが、Dark soulsのオンライン機能の場合、誰かの書いたヒントばかりではなく、白霊もいれば闇霊もいるし、場合によっては狂った闇霊、なんいうのもいた(笑)。で、それらのプレイヤー側の世界に侵入してくる他プレイヤーっていうのは、何か変なやつもいるし面白いやつもいるし、こちら側の主観の中で必ずしも心地よい思いをさせてもらえるばかりではなく、不快な思いをさせられることも含めて、一つの「遊び」として捉えるような所が、Dark soulsのオンの機能、の場合には成立しうるし、ある程度許容しなければならない「他者」との繋がり方として提示されていたと思うんです(チーターは嫌だけどね)。

他方で、Death strandingのシステムに即して言うと、勿論、BT側に立つ、とか対人とかは今回の世界観には合わないし成立する余地はないだろうけれども、ただこっそり助け合うだけの他プレイヤー、そしてそれに対する評価が何回でも送れる「イイね!」だけっていうのが、(それ自体いい悪いってわけじゃなく)このゲームの提示する他者との関わり方、を端的に表現しているようにも見える。

つまり、少し論旨を飛躍させて言うと、こうした全く他プレイヤーに「触れずに」関わろうとするオンラインの仕組みと、ゲーム内オープンワールドに漂っている汎用NPC不在の極端な静謐さ、そして、シネマティックなムービーの中にしか実質的に存在しない固有キャラクタの一方的な語りかけ、は、それぞれ独立していながら、完全にパラレルな関係を保って「Death stranding」というゲームの世界観を構成している、とも言えるわけです。その、プレイヤーが形作っていくゲーム空間の一つの柱が、あんまり関わりすぎないようにするオンライン機能である、と。

5 外部の喪失

以上のように指摘すると、「なんだ、ゲームシステムと世界観とオンラインの仕組みまで完全に一貫したイメージを提示しているなら、好みは別にしてウェルメイドな良作なんじゃないの」と反論されてしまいそうなんですが、ただ、それらの要素によって構成された余りに静かなオープンワールドには、やはり決定的な欠陥がある、と言わないわけには行きません。

このゲームがアクションであれ、アドベンチャーであれ、シミュレータであれ(つまりRPGではなくとも)、仮にストーリーを伴って進行するコンピュータゲームであるとするなら、結局の所、「外部」を如何に措定するか、プレイヤーが感情移入して話を進行させていくべき「視点人物」が、どのようにして自分の考えの及ばない相手、意見の異なる他者、そしてそれまで培ってきた常識の通じないような「外部」の前に晒され、そしてそれらとどう向き合っていくか、克服していくか、または取り込まれるのか、理解するのか、という諸々の展開は、物語にとって必要不可欠であると思うし、三人称客観を保ったまま常に進行していく本作のムービーシーンにおいても、提示されるべき視点であるでしょう。

ところが、それらの外部からの視点が、内部のストーリーに直接流入していく可能性がないことは、既にゲームシステムの構造的な欠陥として「NPCの不在」、「民衆の不在」、というテーマとともに述べたとおりです。

そうしたゲームシステム上の構造とは別に、実際のストーリーに即して言うと、唯一、死者との繋がりを維持する場所として定置される「ビーチ」と「BT」が本来ならば物語の外部、として予め措定されていなければならないんでしょうが、どうやらそれらの要素の意義が説明されることは最後までないようです(冒頭3時間で止めている俺の言うことでもないかも知れませんが)。

というより、ネクローシスの後に何故ヴォイドアウトが起こるのか、っていうのが正直さっぱり分からないんですよね。仮に、ネクローシスっていうのが死後火葬されずに弔われなかった霊として地上をさまよう、とするなら、幾つかの形態を採るBTとかキャッチャーの存在っていうのは、事前になにかものすごく悲惨な死を遂げてそのまま放置されている怨念や霊の集合体、として捉えられなければならないと思うんですが、その前日譚、が語られることはない、というね。(繰り返しになりますが、ストーリー部分についてはネタバレサイトを幾つか見比べただけなんで、間違ってたらすいません)。

さらに言うと、ヴォイドアウト、という事象を必然的に理解するための「過去の出来事」が欠けているのと同様に、何故現在のアメリカがデス・ストランディングに晒されているか、そしてその「外部」の世界はどうなっているのか、ということの事前説明もない。いや、この辺りのことっていうのは、敢えて重要なことを説明不足にしてプレイヤー側の好奇心を掻き立てていく、っていう海外ドラマ的な手法とも取れるし、最後には回収されるんかなあ、と考えながら冒頭をプレイしていたんですが、まさか最後まで語られないままだとは思いませんでした。

まあ、そんなにややこしく言わずとも、アメリカ、の外部がそもそも語られない、って時点で、このゲームのストーリーが極端に「内面的」な話、であることは実感できることなのではないでしょうか。つまりは、アメリっていう女の自我の話

だから、アメリカ、という大地を舞台にしているようには見えるけれども、実際にはそこは日本人のライターが書いたらしい、狭い範囲の個人の自我が直接世界の理解に繋がってしまう、といういわゆるセカイ系の話、っぽいですね。いや、なんでこんな陰湿な批判をちまちま繰り返すかって言うと、それだと、上述したようにヴォイドアウトが何故起こるのかっていうことを理解できないし、もっといえば、それらのヴォイドアウトを通したデス・ストランディングが地球上の生命のために必要なのか、という物語の根本部分が、(外部の措定を意図的に隠蔽しようとしたがために)説明不可能になるのではないか、と考えられるからです。

6 倫理的バイアス

ここへきてようやく、話は表題にしたもう一つの作品との対比に落ち着きます。それは伊藤計劃氏の「虐殺器官」についてのことです。

生前の伊藤計劃氏と小島秀夫氏の交友などは最早ここで指摘するまでもないことですが、仮にこの二人を盟友同士とするなら、何故、その精神性を受け継いで作品を作り続けていくべき小島秀夫監督が、今回のデス・ストランディングのような「虐殺器官」が本来持っていたようなテーマ性を持たない作品を作ったのかという点は、ファンならずとも疑問の残る所です。

以下の文章には、「虐殺器官」の内容に関する言及が含まれます)。

一見すると、今回の「Death stranding」という作品は、それこそ「虐殺器官」の地続きであるような、英語による虐殺の深層文法が唱じられた後のような、絶滅期、がアメリカ全土を蔽うものとして、初めから設定されています。ただ、実際に相互の作品が無関係である以上、「Death stranding」と「虐殺器官」が指し示す作品としての方向性と指向は、全く異なるし、むしろ真逆と言ってもいいほど別の性質を持った作品として理解せざるを得ません。

たとえば、伊藤計劃氏は「虐殺器官」の描写の中で、「実行に対する倫理的バイアス」という表現を使っていますが、シェパード大尉が暗殺に際して相応の心理学的教練を必要とするように、仮に物語の語り手が「虐殺」とか「暗殺」、といった極端に暴力的で嗜虐的な行為について描写する必要がある場合には、その行為そのものを意図的に作中人物に肯定させるか、もしくは行為の残虐性が長い時間軸の上で見れば必要不可欠であると読者を説得するような諸条件が、事前に、予め個人の記憶か共同体の保持する歴史の中に存在するものとして語られていなければならないでしょう。これによって、視点人物、もしくは読者は「倫理的バイアス」をできるだけ回避することが可能となります(回避するための情報がどれだけ正確かどうかは別として)。

この諸条件の説明、が、ほとんど「虐殺器官」という作品の描写の全てと言ってもいい。筆者はそう考えます。何故アメリカは、虐殺の文法によってホッブズ的な混沌に突き落とされなければならなかったのか。そして何故、その文法をアメリカ人であるシェパード大尉は同胞に突きつけなければならなかったのか。

他方で、「Death stranding」という作品には、これと同様の倫理的バイアス、を回避するための説明がありません。そこの説明が全くなされないままに、ヴォイドアウトによって都市は吹き飛び、絶滅期、という生命の滅亡が初めから必然的なものとして提示されている。

「昔、爆発があった」。勿論、物語冒頭で提示されるような、宇宙論的な始まりに「類」としての誕生も接合できればそれで片付くんでしょうが、生命がある種の進化をするために「絶滅期」が必要であり、そのためにデス・ストランディングが必要とされるのであれば、そうした生命の起源を説明しようとする際に、宇宙論的な始まりとしても捉えられる「爆発」を持ってくるというのはつじつまが合わないのではないか(実際この辺の解釈はかなり難しい。つーか、ペンローズでも呼んでこない限り無理でしょう)。

ただ、そこまで論旨を飛躍させず、「爆発」をストーリー上でも提示されているように一つのテロリズムとして捉え、そこに人為的な操作としての意味付けがなされるのであれば、やはり「虐殺器官」で提示されているような、倫理的バイアス、を回避するための意味付け、説明は、実際のストーリー上で行われる必要があるのではないでしょうか。で、その説明を行おうとすると、時間軸上の過去、即ち歴史に対する言及や、空間上の外部、即ち他者と取り結んでいる関係性への一定の論及は必要不可欠である、と。

7 まとめ

この辺りの、本来必要とされるべき設定が、ごっそりと、それが意図されたものであるにせよそうでないにせよ、抜け落ちてしまっている、というのが、今回のDeath strandingのストーリーテリングの特徴である、と言えると思います。再三述べているように、そうした全体像を敢えて提示しない、という語りの仕組みは全然アリ、だとも思いますが、それらの試みが最終的に肯定されるのは、物語のラストまでにそれら必要条件が適切に語られた場合、のみであるとも言えます。

そしてこれも再三述べているように、ネタバレサイトを見ただけで物語全体を観測したように語るのも道義に悖る、というか心苦しいんですが、正直、開始三時間でどうやらこのゲームが上に述べたような構造を持っている、ことについては漠然とイメージできてしまったので、ゲームのファンの方や製作者の方には失礼を承知の上でこの文を書いています。全てが私の誤解であるとすれば、そうした事情からですので、予め謝罪しておきます。馬鹿ですみません。

とは言え、この記事の冒頭近くで指摘した部分、つまりは、このゲームには全く自由度がない、という点、NPCからの指示を一方的に受け、その「命令」の中で工夫するのは自由、というゲーム設計については、私は全く賛同できないし、そこで欠落している民衆、NPCとの関係性が、翻してみると、ストーリー上の欠点としての、外部、他者の欠落に直接結びついている点については、どうやら確かであろうとも思われます。

逆に言うと、この「全く自由度がない中で何とかプレイスタイルを工夫して充実感を得ようとする態度」とか、「民衆も大衆も、やんわりと繋がっているようでいながら実際には極度に冷淡で、相互に関わりようのない世界」というのは(上記の2つの特徴ともに筆者の主観ですが)、ある意味であまりに正確な現在の我々の世界に対する寓喩とも取れる。

この「イイね!という量的な評価のみに依存するお使い感覚」と「全く顔の隠された他者不在の世界」、「一方的に語りかけてくる固有NPCとしての権力者」などのゲーム内諸特徴を、初めから、それこそコロナ以前から予見して、敢えてある意味での退屈さにまみれたゲームを作っていたのだとしたら、それこそ小島秀夫は天才だ、ということになると思います。……あまりに逆説的なことではありますが。

いずれにせよ、そもそも私のような疑似アンチがこんな下らない記事を書くにしろ、物語全体、ゲームの構成全体が破綻なく成立していなければできない話なので、そうした「大作」の片鱗のみにでも触れさせて頂いたことは、あまり世間一般的なメガタイトルをプレイしない筆者にとっても貴重な体験でした。

そして、繰り返しになりますが、実際3時間しかやっていないのに書く、っていうのも心苦しい所ではありますので、いずれ、もう少し気持ちに余裕のあるときにこの記事自体もアップデートできればいいなあ、と個人的には考えております。

最後に、批判ばかりしていたようなので弁明すると、なんか映画監督としての小島秀夫の評価は~、と言っているような方々もいらっしゃるようですが、そもそも実写版の映画と普通に比較されるようなCG映像を作っている時点で、とんでもないことだと思います。そこは素直に称賛したい。

動画とか、スクショとか撮ってててももうほとんど正直実写なのかそうでないのか見分けが付かないほどですからね。いや、ホント、技術の進歩はすごいですよ。カメラワークなんかもほぼ完璧なんではないか、というのが、筆者の感想です。これにケチ付ける人ってのは、なんかゴダールも真っ青の極端なシネフィルとかなんですかね(笑)。

それこそ、劇中のムービー部分のみを直接つないで、合間に道中を個人実況していくような旅番組風にすれば、もうそれだけで「映画化」とか「アニメ化」とかいう過程を経ないでも初めから全二十回の海外ドラマみたいな感じで成立しそうだけれども。逆に言うと、ゲームとして成立しなければいけない必然性があるかないかって言われたら、やっぱりないんでしょうけどね。

と、結局、批判的な態度に戻ってしまいそうなんで、この辺にしときます。いや、このCGのクオリティとか演者の表情描写そのままで、普通にオープンワールドのゲームが4Kとかでできたらとんでもないことになるんでしょうけどね。そのためにはまずグラボの値段が落ち着かないといけないし、あまりに記事も冗長になりすぎたんでいい加減この辺にしときます。ではでは。

コメント