ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントは、著書の中で、「地球外生命体の存在が確認されうるとしたら、有り金の全部を存在する方に賭けてもいい」という意味のことを言っている。で、今回の記事はタイトル通り、その辺のことと「古代の宇宙人」という海外制作のCS番組を結びつけた内容になっております。
と言っても、あまり哲学的な批評になりすぎてもアレなんで、ざっくり言うと、カントは人間の悟性概念や理性は全て結局主観に過ぎず、「事実」そのものは絶対に知りえないし、それぞれの個人の主観に従って何らかの誤解は必ず含まれうるし、それこそ、そう云った誤解の含まれない「真実」は神のみぞ知る領域であり、今上に述べたような、人間の知りえない事実そのものの領域について、「物自体」という定義が与えられるべきである、と考えている。
って、いきなり何かめっちゃ回りくどい説明になっちゃいましたが、この「物自体」という概念と、「宇宙人は絶対に存在するから、マジで」。っていうカントの生前の主張は、ある種の共生関係にあると言えると思うのです。そう云ったブログ筆者なりの視点から、いきなり、「古代の宇宙人」に関する言及をすっ飛ばし、物自体、について素人なりに書いてみました。
で、改めて宇宙人と物自体の関係について言い直しますと、それは下のような論理の経過をたどると思います。
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宇宙全体、という人類にとって全体を絶対に知りえない領域がある限り、そこに地球外生命体の存在の「不在」を確証することは難しい。だから、「不在証明の不可能性」によって、「存在証明の可能性」、つまりは地球外生命体の存在の可能性、は、必然的に一定程度担保されなければならない。
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花村萬月の小説の作中人物の台詞を例に取るまでもなく、この「存在証明」も「不在証明」も同時に不可能である、という点こそが、この世で信奉されているすべての神に共通した定義であるでしょう。で、結局何が言いたいかといいますと、
「古代に信奉されていた痕跡を残す世界各地の神々は、すべて実際は宇宙人で、彼らが来訪した証として、現代の科学技術では分析不可能な事象が、世界各地の遺跡群などで散見されている」という「古代の宇宙人」のテンプレ的な主張は、まさに物自体、という概念を伴って既存の宗教の神を殺した、ともされるカントの批評哲学とも軌を一にしている、ということです。
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もう少し端的に言い直すと、不在証明の不可能性=古代の神々=物自体=宇宙人の存在可能性といった所でしょうか。(実際の結びつきはニアリーイコール程度ですが)
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一方で、「科学者たちは自分たちの知識の範囲で理解できないものは無視しがちである」というのは、まさに古代の宇宙人という番組の中のナレーションの定型句ですが、逆に言えば、古代の宇宙人という番組は、いわゆるオーパーツなり、世界各地の未解決な事件を集め続けながら、一般的な科学領域が削ぎ落とした例外的な領域の地図を、陰画をあぶり出すように延々と描き続けている、ということになるでしょう。
そして、彼らは必ず最後にこう付け加えます。「これら解明され得ないすべての事象は、実際には古代から来訪を続けている宇宙人の仕業なのである」と。
ただ、この主張は、初めから再三申し上げている通り、極めて逆説的なものであり、実際には「科学は常に反証可能性を未来に対し保持し続ける必要がある」という条件の同語反復に過ぎません。なぜなら、そうしてひとまず保持される科学にとっての世界の全体像は、時間的に常に更新され続けるはずのものですし、であればこそ、空間上の「分からない」領域をどこに措定するかに応じて、むしろ、積極的な意味で今、現在の我々にとって探求心が掻き立てられる状況が作り出されていると言えるからです。
これらのことを、当然ながら理解しつつ、且つ番組を盛り上げるための仕掛けとして、古代の宇宙人では一見して既存の科学を批判するような態度をとっています。しかし、彼らが巧妙な点として、これまた当たり前といえば当たり前の話ですが、彼らが、古代に宇宙人が来訪して人類に何らかの影響を与えた(古代宇宙飛行士説)、を唱える時、絶対に断定的な口調では語らない点は指摘されるべきでしょう。
「もし~~という考えを採る場合、こういう風に考えられるかもしれない」とか、「古代宇宙飛行士説の提唱者ならこう考える」という、既に古代の宇宙人を見た視聴者の方にとってはお馴染みの(笑)フレーズが、一番組中に何度も登場してきます。
また、そうして「可能性」について触れ続けているようでありながら、他方で毎回取材し続けている遺跡群や、最新の科学で発見された知見、過去に起こった出来事の細かなディテールを敷き詰め、あたかもそれが客観的な「事実」に基づいているように演出する点も、この番組にとっての主要要素であるでしょう。
というか、その演出の巧妙さが全てと言ってもいい。話のどこかで、「もしかしたら」、という前提が含まれてしまった時点で、以後の検証はすべて科学的な客観性を持ちえないことなど、まあ、見ているほとんどの視聴者は気づいているわけですが、それでも、「もしかしたら」、これらのことも事実として起こり得たのかもしれない、という番組の示唆する通りの連想を掻き立てる仕様になっていることは間違いがない。だから、番組としては非常に面白い、ってことですね。
とまあ、ここまでで番組全体の基本的な構成については触れましたので、あとはその中で用いられる「古代宇宙飛行士説」の、いくつかの類型を示してこの記事の結びにしたいと思います。
で、なんでその類型を示そうとするかといいますと、類型そのものの中に古代宇宙飛行士説、の限界が潜んでいると考えるからです。そして、それらの限界は、計らずもカントが二百年以上前に「アンチノミー」の問題として提示した4つの悟性概念への問いと一致している。
具体的に、古代の宇宙人の中での論理の諸展開は、
1
過去に起きた出来事の痕跡を留める遺跡の中には、現在の科学技術の発展の推移から鑑みてあまりに高水準な技術が存在する
2
近年になって明らかになり始めた科学の知見や分析から、巨石群やピラミッドなど、特定の領域には我々の未だ知りえないエネルギー装置としての役割があったと考えられるかもしれない
3
ロズウェル事件など、NASAや政府が関わったとされるいくつかの事件には、国家が隠蔽しなければいけないなにか重大な機密が隠されている(と、その事件に関わった幾人かの人間によって主張される権利がある)
4
上記のすべての要素から考え合わせると、古代から現在に至るまで宇宙人が人類に関わっていることは明白であり、彼らの所業が、我々の理解を超えたものとして世界のあちこちに残されている。
(以下、再び1に戻り、無限ループ)
まあ、大体こんなもんでしょうか。つーか、この辺りは本当に古代の宇宙人をご覧になった方には躊躇なく同意して頂ける所だと思います。で、私が申し上げたいのはこの4つの項とカントのアンチノミーとの対応ですね。
と言っても、またやたら衒学的になってもアレなんで、ざっくりいいますと、カントのアンチノミーとは、
1
世界は時間的、空間的始まりを持つのか、という問い
2
世界は分割可能な最小単位を持つのか、という問い
3
世界の発生的原因性が自然現象以外にも存在しうるのか、という問い、
すなわち自由は存在しうるのか、という問い
4
絶対的存在者というものはこの世に存在しうるのか、という問い
…の四項目になります。
面倒でなければ、少しこの頁を遡って、古代の宇宙人の4つの展開の内容と見比べてみて下さい。筆者が相違として併置したのだから当然といえば当然ですが、そこには明白な対応関係がある、と思われるのです。
つまり、
1の
世界は時間的、空間的始まりを持つのか、という問いには、
→
そもそもそういった空間概念と時間概念を人類が持つきっかけとなった知覚は、有史のある時期に宇宙人による遺伝子操作によってもたらされた、と答え、(その結果、現在からするとありえない水準の技術まで、副産物として、遺跡などから発見される可能性がある)
2の
世界は分割可能な最小単位を持つのか、という問いには、
→
量子論を凌駕するような、未だ発見されざる物質の単位によって構成される世界が思考されうる、(そして、それらのエネルギー領域や波長を利用するために、宇宙人が古代のある時期に現在確認されうる遺跡群を作った)と答え、
3の
世界の発生的原因性が自然現象以外にも存在しうるのか、という問いには、
→
国家や政府、大企業をも凌駕するような影響力を持つ宇宙人、という存在を最上位に定置することで、超自然的な存在、に発生的原因性を求め、一方では、人類に与えられるべき「自由」を完全に放棄し、その代りに個人として、宇宙人の存在を主張するための「自由」を得る。
そして
4の
絶対的存在者というものはこの世に存在しうるのか、という問いに対しては、
端的に、「宇宙人は存在している」と答える。
…………………………
いかがでしょうか。上記を単純に解釈して、シンプルに「古代宇宙飛行士説」は、ありふれた神秘主義である、と断定することももちろん可能でしょう。
ですが、そもそもカントのアンチノミーに立ち返りますと、アンチノミーとはその言葉通り、ある、という答えとない、という答えがどちらも偽である(相互の主張が堂々巡りになる)問いのことを指していたはずです。
上記の4つの問いのうちでは、
1、2、4の
世界は時間的、空間的始まりを持つのか、という問い、世界は分割可能な最小単位を持つのか、という問い、そして、絶対的存在者というものはこの世に存在しうるのか、という問い、のそれぞれは、本来ある、とも無い、とも言い切れないはずのものです。(3の自由に関する問いのみは、あるという答えもないという答えも互いに真である、とカントは言っている)。
ですが、「古代宇宙飛行士説」では、上記のすべての問いを、「宇宙人」の所業として理解するかぎりにおいて、宇宙人レベルで考えるとあるけど、人類レベルで考えるとない、みたいな形で、すべてを真、として矛盾なく理解しているようにも考えられるのです。
なんか、書いている筆者の口調も、古代の宇宙人のナレーターと同様にどんどん回りくどくなっていってますが(笑)まあ、端的にいうとカントの真逆ですね。逆に、人類という存在にそもそも自由などはない、みたいな感じで、自由だけを否定している。
この対応関係っていうのは非常に面白いと思うんですよね。カントは批評哲学の側から、人類の知性の限界を示そうとしているのに対し、「古代の宇宙人」では、宇宙人の存在を主張する側から、すべての事象に対して超越的な理解を促そうとする(笑)。まあ、この点は一番はじめから書いている通り、真逆と云えば真逆ですが、同じと云えば同じです。
だって、カント自身は宇宙人の存在を100%信じていたわけですから。いないと言えないからいると考えなければならない、とは言ってない。100%いると言っている(笑)。
勿論、それは繰り返しになりますが、物自体の領域として神の知性の居場所を残しておく、カントの思想的態度を明らかにしている、だけなのかもしれませんが、何にしても、既存の科学が絶対ではないこと、そして、それらの知見が時とともに更新されていくべきものであること、への強い意識付けを求めている点に関しては、「古代宇宙飛行士説」とカントの批評哲学には、共通する意志めいたものがあるとも考えられるでしょう。勿論、真逆と言えば真逆ですが……。
記事自体が無限ループに陥りそうなんでこの辺にしときますが、最後に付け加えておきますと、筆者は今後、古代の宇宙人、に関する感想を逐次(再放送を見るたび)、書き連ねていこうと思っております。その際には、上に記した極めて図式的な対応を参照しつつ、
それだけだとあまりに堅苦しすぎるんで、各回のテンプレ的な展開からはこぼれ落ちるもの、「お、なんか考えれば考えるほどよくわかんねえな」、っていう、番組中で紹介された遺跡や事象について、自分なりに思考していければと思っております。
何か、長々とした記事になってしまいましたが、実際の古代の宇宙人、は私がここで述べたような退屈な話では決してありません。一つ一つの回が、世界各地の遺跡や、超常現象の追跡、科学的な検証にあふれていて、そのディテールをこそ、毎回楽しみにするべきだとも思います。ですんで、CS放送見れる方はぜひ見てほしい。本当に端的にそれだけです。
というわけで、もしかしたらまだ見たことのない方に、要らぬ先入観を与えてしまったかもしれないことをお詫びしつつ、この記事の結びにしたいと思います。
それでは。
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