いやあ至極のRPGを存分に楽しませて頂きました! 改めまして、ファックマンさんとsynctamさん、プレイする環境を整えて下さって、ありがとうございます。以下は、一度プレイし終えた時点からの感想、及び解説になりますので、これからプレイする予定のある方や、ネタバレ(Pillars of Eternityの内容も含め)を極力防ぎたい方は、ご覧にならないほうがよろしいかと思います。周回プレイ前、もしくはDLC待ちの方で他人の感想に興味のある方のみ先へお進み下さい。
2020年末追記:その後、Pillars of eternity2も無事堪能しました。そちらの簡潔な攻略情報は↓を参照下さい。
で、Tyrannyの方に戻って、具体的にこの記事では何を書きたいかというと、いや、多分一回プレイし終えた方にはお分かり頂けると思うんですが、この「物足りなさ」についてです。(当方は攻略サイトやWIKIなどを見ず、DLC抜きで、とりあえず自分にとっての一周目を終えております。)
って、書くとかなり批判的な印象を与えてしまうかも知れないのでフォローすると、はっきり言ってこのRPGは文章の質、世界観においては究極、です。
動画の中でも何回も言ってますが、ここに尽くされた比喩表現、修辞学、文章を基に展開される世界観の中での不断の決断の連続、などのほとんどの要素が至高であり、つまりはTRPGに本来プレイヤーが求めているもののすべてが、凝縮して詰められていると言って良いでしょう。
同時に、それを網羅的に翻訳されたファックマンさんも凄い。別に個人的にヨイショしようとする気はありませんが、ある種の翻訳業においては「相性」のようなものもあるわけで、おそらくこのティアーズの世界観、PoEから続く濃厚かつ緻密、神話的でありながら卑賤さをも含むリアリスティックな文章を、原文の持ったイメージを損ねずに訳せるのは、今現在、PCゲームのRPG業界でファックマンさんしかいないでしょう。
私自身はスカーレット・コーラス側でのクエスト受注が多かったせいもあってか、まさに地獄絵図、というか、その地獄の中でのイロニー、ユーモア、泥臭く彩られた描写の数々が、もうゲームというよりほぼ小説、システム面はほぼオマケ、のような見下ろし視点の中で存分に展開されていくこととなりました。
で、その文章の凄まじさ、については、それこそ個別に別記事でも作って論じていきたいと思うんですが、話題を戻しますと、この「物足りなさ」についてです。(以下は、さらに物語の結末に関する記述になります、と一応再度警告して続行します)。
まあ一言で言うと、これじゃ駄目だろ、ということなんですよね。(もし自分の進め方が悪いだけだったらすいません)、ただ、自分の場合、まさにこれからカイロスと決戦する直前で物語が終わっているんですよね。
四章に突入する、と思い込み、三章と四章をつなぐはずのムービーを見ながら興奮し、(実際はそれがエンディングだったわけですが……)、さあいざ勝負、と思って見ていると、ヴェルス、だとかラントリー、シリンらの後日談、が流れ始め、そのまま怒涛のスタッフロールに突入! そして、五倍速でそれを流し終わると、あの勇壮なオープニングテーマの流れる初期画面に飛ばされます。
ディスフェイバードとの戦い以前からマップ上のサブエリアには行けなくなってたんで、嫌な予感はしていたんですが、まさかここまで唐突に終わるとは思っていませんでした。自分にとってのラスボスが、まさかカイロスではなくXXXXXだったとはね。
ただ、この辺りはDLC抜きで遊ばせてもらった気の早いユーザーにとっての特殊事情かもしれません。DLCのコンテンツ内容に付されたタイトルなど見ると、私が感じた物足りなさなどは、それらを追加して遊ぶことで解消されるものなのかもしれません。
と思う反面、オブシダンの前作に当たるPoEと比べると、やはり、あちらはヴァニラでも完璧な作りでしたからね。むしろDLCが「追加コンテンツ」としてしか思えないほど、ストーリーを数多の分岐も含めて最後の最後で全て回収し、ふさわしい結末を与えることに成功していた。それと比べると、どうしてもこのTyrannyの終わり方は中途半端と言わざるをえない。
この当たりはやはり納期、とかの影響なんでしょうか。厳密には分かりませんが、三章で終わるのも何かおかしいし、未踏破エリアもたくさんある。スパイアに至っては3つしか手に入れられていない。というか、俺だけ特殊なバッドエンドなんすか、って、画面上見ながら実際呟きかけました。
翻ってみると、チュノンの法廷、何かは、PoEで言えば、間違いなくデファイアンス・ベイでの裁判でしょう。それを踏まえて、Act3以降どうなるのか、というのがいよいよ本番、という所。Tyrannyにしても、カイロスの勢力圏との全面戦争、とは行かないまでも、局所的な戦闘と抵抗は起こるべきで、結末、を迎えるにあたって、それまで選び取ってきた全ての選択が回収され、ある場合には有利にもなるし、ある場合には不利にもなる。そこまでの大団円が、本来Tyranny開発チームが意図した終着点だったのではないか。
上のように問うのは、自分にとっては勝手なことなんですが、無意味といえば無意味です。実際にそうなっていないのだから。勿論DLCで今述べたようなことの多くが解決されていることを望みますが、Tyranny単体でそういった作りになっていないのは事実です。ある種の虚無感と同時に、爽快感すら感じながらわたしはそれを受け入れました。
で、それから数日間は、そこまでの数十時間が至上の体験だったことを改めて確認し、ゲームクリアと同時に襲ってくる虚脱感、とはまた別の、何とも言えない「もの足りなさ」、を感じながら、惜しい! という一言を、頭の中で何度も反芻していたものです。
…………
ただ不思議なもので、3日くらい経って、自分自身予定していたゲーム動画でも作成しようかな、と撮りためた映像を振り返ってみるとき、このゲームはそもそもこういうデザインだったのではないか、という達観が、わたしの眼前に去来してきました。
どういうことかというと、NPCの語る言葉の一つ一つが、「濃すぎる」のです。この密度で、破綻なく最後まで終結させようとしたら、時間がいくらあっても足りねえだろ、と突っ込みたくなるほど、ほとんどNPCの存在自体がクエスト報酬のようなものですね。
且つ、動画でも喋ったんですが、このtyrannyの場合、物語の分岐が単なる分岐ではないんですね。この辺は自分の以前のブログでも書いたことなんで、誰からも読まれずに破棄されたその記事を掘り起こしてみようか、という気にもなったんですが、単なる枝葉、の部分が、他の物語の主要部分と無関係に分岐するだけではなく、個別の選択が、物語そのものの流れを決定づける事になりかねない、本当の意味での「分岐」なんですよね。
この分岐、は、日本のノベル系ゲームなどに見られるように、周回プレイを前提とした、「一方を選ぶと一方は選べない」という仕様になっておりますので、作り手側の労力は相当なものだと思われます。
さらに言えば、そうした、いわゆる~ルートと呼ばれるような分岐が、日本のノベル系ゲームのように最終章直前で起こるのではなく、物語全体を始めから終わりまで覆っているような「長大な」ゲームが、このTyrannyというRPGなのです。
で、そうだとした場合、上に述べたような分岐の連続を、最終的にすべて何らかの形で回収するのが必ずしも「正しい」結末のあり方ではなく、むしろ、そうした「分岐の過程」で、物語全体を放棄する、という方法論も、この作品の最終到達地点を思い返すにあたり、(別の諸事情があった可能性を考慮するにせよ)、あり得べきことなんじゃないか、と思えてきました。
ちょっと回りくどくなったんで具体的に例を示しますと、このゲームを始めるに辺り、
真っ先に行わなければならなかったコンクエスト、というミニゲームを思い起こして下さい。あれは、たとえばドラゴンエイジ2、インクイジション、ウィッチャー3にあったような、前作を踏襲した、世界設定の再認ではありません。
前作の存在しない、オリジナルのゲームの冒頭から、いかにその世界が征服されてきたか、を「分岐させる」必要があるのは、他ならぬこのTyrannyが初めてではないでしょうか。つまり、このTyrannyというRPGは初めから「分岐していた」のです。
そして、プレイヤーは、自分自身が始めに分岐させた世界の中を、まさにカイロスの使いとしての自身の所業の爪痕を確認しながら、さらなる選択をして、物語を「分岐」させつつ進んでいかなければなりません。このTyrannyの選択の中で特に顕著なのは、Aという相手にもBという相手にも満足な結果を及ぼす、という平穏な選択肢の極めて少ないことです。
選択は、必ずと言っていいほどどちらか一方の勢力からの嫌悪を引き起こすことになります。そういった厳しい二者択一の連続を、プレイヤーは積み重ねていくことになる。
その結果として、ここで話をこのブログ記事の冒頭から述べていた物語の結末自体の「もの足りなさ」の件に戻しますと、私自身がプレイヤーとして迎えたその結末は、まさにプレイヤーがカイロスと対峙する直前、で終わっています。PoEの場合であれば、物語そのものを時間的にも空間的にも支配している超越者としての”T”ときちんと対決するところで終わるわけですが、Tyrannyの場合はそれが省かれている。カイロスにどう対処するかという選択、を布告を発令する直前にまさに選び取る、所で物語は終わってしまう。
…………
これでいいんじゃないか、と今この記事を書きながら改めて思っています。一般的な王道のRPGであれば、大抵の物語はその物語を規定する超越的な視点そのものの場所にまで主人公たちが到達して終わります。一方、今回のTyrannyの場合は、その超越的な視点にたどり着くまでの過程としての選択の連続だけが描かれている。
ただ、ここで注意しなければならないのは、その選択の過程で、主人公が、本来見下されて指示を受け続ける一方であるはずの「視点人物」としての自身の中に、徐々に世界全体を規定しているはずのカイロスと同じような力を宿していくことです。
何が言いたいかというと、初めのコンクエスト、で規定した世界というのは、主人公(その身代わりとしてのプレイヤー自身)が自分で選び取っているようでありながら、実はカイロスの力の発露であった、わけですが、世界は、物語を進めるに連れ、その、我々がはじめに自分の力で選び取った、と錯覚したコンクエスト上の「見下され方」を、まさに主人公自身の力によって適用される対象に変貌していきます。
この点は、主人公が「布告」を行える段になって顕著に、かつ決定的になります。あの「布告」を初めて発せられるようになった瞬間、我々はやっと物語冒頭のカイロスに「追いついた」のです。そして、そこが終着地点でもある。つまり、初めに世界征服のありようを決めた冒頭のコンクエストに、プレイヤーはようやく最後の段になって接ぎ木されたような感覚を覚えることになる。
この感覚こそが、Tyrannyというゲームのクリア感として意図されたことではないでしょうか。「魂」をテーマにしたPoEのように超越的な視点の保持者を倒すことで世界の円環を「閉じる」のではなく、ただ目の前にある選択の連続としての歴史の反復を受け入れること。それが「国家」をテーマにしたTyrannyというゲームには求められていたのではないか。
少し冗長になりすぎましたので、上に述べたことを何点か補足して、この記事をしめたいと思います。物語の中では、ちょっと誰のセリフか忘れましたが「歴史は繰り返す」、というヘーゲルの言葉が引用されているんですが、皆さんご承知のとおりこの言葉にはマルクスによる注釈があって、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、と続きます。
この言葉はまさにTyrannyのためにあるような言葉で、あえてゲームに合わせてマルクスの上の言葉を解釈し直すと、
1 反復の大本となる一度目の分析可能な構造
2 悲劇としての反復
3 喜劇としての反復
という、3つの類型が反復そのものの中には潜んでいる、
ということになるでしょう。
だとすると、
Tyrannyにおける上記の1~3はそれぞれ、
1 コンクエスト
2 PCが成り上がっていく実際のゲームプレイ
3 すべてを「知った」後の周回プレイの直前
(のコンクエスト)
と当てはめることが可能だと思われます。
ここでも重要なのは、やはり視点のことです。一度目の反復が歴史上行われた時点では、その実際の時系列上に居る人間は、それが反復だと知らされていません(初見プレイ)。
二度目の反復が悲劇なのは、
時系列上で起こる出来事に立ち会わさせられる人々が、その、目の前の出来事が過去に起こった出来事の反復だと気づいてしまっているからです。(コンクエストで決定したことが、世界に展開されているのを目のあたりにすること)(また、その事態を決定づけたカイロスと同等の力を、プレイヤー自身身に着けていくことが可能であること)。
三度目の反復が喜劇なのは、
一度目と二度目の反復が歴史上の出来事として起こったことを知りながら、さらにもう一度繰り返されるのを止めようがないからです。(別の立場に立った上での周回プレイ)(自分にとっての「最善」のゲームプレイを目指して、事態を逆算すること)。
ほとんど上に述べたマルクスの言葉通りのゲームデザインになっていると言えるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、このTyrannyというゲームは、そうした反復の中で、「最終的な」結末を迎えることのないゲームプレイの終焉を運命づけられた作品なのです。
勿論、一度目のプレイを終えた後の我々は、実績コンプリートを目指して何度でも新しくゲームを始めることができますが、それは既に喜劇的なものにしかならないでしょう。
なぜなら、フェイトバインダーからアルコンへ、さらにアルコンからカイロスへ、という絵に描いたような出世街道を、かつての自分自身がしたのと同じ形で、「新たな」フェイトバインダーが上り詰めることも可能であることを知っているからです。
新たなカイロスは、何度プレイをし終えてもついに「元々の」カイロスと相まみえることはありません。常に新たに与えられる周回プレイのために、絶えざる分岐という選択肢以外のすべての可能性を捨てたゲーム、私自身の結論として申しますと、それがまさにTyrannyというゲームです。
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