ランス10 七周攻略を終えてからの解説と感想(黄金像とラ・バスワルドはどこ……)

神ゲーとクソゲーは紙一重、とはよく言われることですが、自分にとってはRANCE10ほどこの格言にふさわしい作品はありませんでした。以下は主にシステム面への批評になりますが、記事の後半になるに連れてネタバレも含まれてきますので、一通り周回を終えてやり尽くした、という方のみの閲覧をお薦め致します。

(感想はすべて筆者の主観であり、また、以下は全て18禁ゲームへの論評でもありますヴァージョンは1.01時点です)。

まあ、このゲームが神ゲーである、ということは諸所で言われ尽くしていると思われますので、むしろこの記事では、欠点と思われる点を批判しながら、何故そういった欠点を抱えなければならなかったのか、について分析してみたいと思います。いえ、自分もランスシリーズの大ファンであるのですが、愛があればこそ、ということで。

1 RPGとしての評価と「カード化」

まずこのゲーム、RPGとしては完全に破綻しています。各プレイヤーの方々から言及されていることではあるのですが、紙芝居の中で、ストーリー上死んだとされているキャラが生き返ったり、一時離脱中のキャラが急に復帰したり、何の導入もないキャラがいきなりイベントに登場してきたり、と言ったことがこの「大陸」では日常茶飯事です。

セラクロラスが常時偏在しているとしか思えないレベル、そこへチャンネルを合わせることを余儀なくされるゲームこそが、このランス10というRPGです。

さらに言うと、もうキャラクタ全体が単なる「カード化」されてしまっているんですね。
この辺りはランス8にもあった要素なんで、ランス10プレイ前からの不安要素ではあったんですが、今までランスシリーズに登場したキャラクタが、何の脈絡もなくぽん、と宝箱から出てくる。これこれこういう経緯で、という部分がまるで省かれている。

いや、初めからそういうものなんだ、と割り切れれば問題ないんでしょうが、当方の環境では初めのレア宝箱からシルバレルが登場したこともあり、若干面食らいました(あれ、何でこいつここで仲間になるの……)。

再三言うように、プレイしているうちにすぐ慣れるんですが、リーザスやヘルマン、自由都市、ゼスで各キャラクタが仲間になる過程に関しては、やはりある程度の導入がほしい、というか、その他のどちらかと言うと主要でないキャラクタに関しても、ランスはかつての自分の知り合いに片っ端から徴兵令を出した、とか、一言でも注釈があればまた違うと思うんですがね、とにかく脳内補完が求められるゲームではあります。

この辺りは食券イベントにも全く同様のことが言えると思います。プレイの進行上、どうしても離脱してしまうキャラも居るわけで、そういったキャラも交えてイベントを作る場合、現在部隊内で選択可能かどうかのフラグ管理をして、存在しないキャラの登場するイベントに関しては、
「数週間前」、
とか一言冒頭に入れれば最低限納得の行く部分ではある。まあ、今私が述べたようなことは多くのプレイヤーにとっては冗長なことかも知れません。

ただ、この初めに出くわすことになる違和感は、一部のプレイヤーがランス9に抱いたであろう感慨、つまりは、「何故こんな風になってしまったんだ」、という落胆を呼び起こすのには十分なものになったでしょう。このRPGとしての破綻、に気づいてからのプレイは、そういった「おいおい大丈夫かよ」、という懸念と、いや、アリスソフトはランスシリーズの最後の作品にクソゲーは作らないはずだ、という、ある種のAL教信徒としての信仰の双方に引き裂かれたものとなっていたはずです。少なくとも私にとってはそうでした。

2 地域制圧型要素と一人称的テキスト

しかし、多くのプレイヤーにとっての一周目のバッドエンド、を終えた段階から、「お?」と、またプレイフィーリングの転換点を迎えることになるのもまた事実、でしょう。そこにおいて多くのプレイヤーは、あ、このゲームは一見一本道のストーリーが複数並べられているだけに見えるけれども、実は「地域制圧型」的な要素が含まれているのだ、と気付くからです。

同時に、「既読スキップ」というアリス作品にとって必須のスキルも「解放」されます。ここからがこのゲームの本番で、RPGとしての整合性を求めず、各種イベントは今までシリーズに登場してきたキャラのわちゃわちゃ感を楽しむためのものだと割り切り、一方その頃、と一歩歩くごとに起こるイベントテクストを既読スキップの対象として処理する、こうした経緯の後、「攻略」に集中し始めた段階が、このゲームが神ゲーとして鎮座するようになるプレイ開始以後の数週間というものです。

その「周回プレイ」の間に顕著になるのは、(以下は筆者個人の主観による部分が大きい、と予め注釈しておきますが)、やはり、シナリオテキストの冗長さ、ということになるでしょう。

一周目の段階ではもちろん全体の何分の一かほどしか既読スキップの対象になっておりませんから、まだ到達していない領域、見ていないイベントが起こるたびにその都度、テキストを読み進めることに当然なるわけですが、そこでゲームのテンポが失われてしまうことにプレイヤーは気付くはずです。

一言で言うと、大戦略RPGという視点がコロコロと変わるゲームの外形に対して、一つ一つのシーンの描写が長すぎますね。で、この辺りは勿論好みの問題ではありますが、その冗長さの原因は、ヨイドレ・ドラゴンさんやダイスころがしさんの文体に原因がある、とわたし自身は思っています。

皆さんご存知の通り、鬼畜王ランス、ランス6、戦国ランス、大悪司などは前任者であるとりさん、という方がライターを務められていたわけですが、わたしはこのとりさんの描写が本当に好きだった。(いや、関係者でも何でも無いですけどね)。

今でもアリスソフトの公式の大悪司ページに掲載されている小説を読んで頂ければ分かると思うのですが、(往年のアリスファンにとってては言わずもがな、かも知れませんが)、ランス7までの描写というのは、やはり「小説」として書かれていたんですね。そこには不要な部分を極限まで削り尽くす、という簡潔さに対する美学がある。(と少なくとも私個人は思っている)。

その不要な部分、というのは正岡子規を例に取るまでもなく、視点人物の内面描写、や語り手の逡巡のことです。敢えて視点人物が浸っているであろう感慨に直接没入することなく、風景や端的な事実の描写によってそれを表現する、というのが「上手い」と言われる文章の一般的な条件でしょう。

あくまで個人の感想、と何度でも断りますが、わたしにとってとりさんという方の描写は、そういった一般的な小説が目指すべきリアリズムのようなものを、何故かエロゲーのライターとして表現している稀有で尊敬すべき対象でした。そして、その端的で簡潔な描写が、地域制圧型シミュレーションというアリスソフトオリジナルのゲーム性に極めてよくフィットしていた。

翻ってランス10のシナリオに関して具体的に言及しますと、一人称、の描写が随所に出てくるんですね。(ここで言う一人称とは、~はという三人称客観を保つための制約を外し、視点人物の五感によって受容される対象の情報を主語としてあてはめることです)。

アリオスの登場シーン然り、レイが雑踏を歩くシーン、ケイブリスの回想シーンなど、その一人称視点がキャラクタのバックグラウンドを掘り下げるのに一役買っていたことを思い返すのは、ランス10を周回したプレイヤーにとってはた易いことでしょう。

実際、
ヨイドレ・ドラゴンさん、ダイスころがしさんの描写というのは、そういった各キャラクタの内面を掘り下げたり、ここまで登場人物の増えすぎたシリーズ全体のキャラの掛け合いを存分に見せる、という点については、むしろ非常に優れていると思います。

というか、ここまでの文章量を今までのランスの各シリーズの情報と矛盾なく接合する形でぶち込んでいる事自体、本当に凄いと思うし、この世界、にずっと浸っていたいランスファンにとっては、無限に潜水可能な巨大プールを手に入れた、と言っても過言ではないかも知れません。ただ、それでもやはり指摘したいのは、それをゲーム内のストーリーを進行させるテキストとしてみた場合、あまりに冗長であり、プレイヤーにとっての心地よいテンポを阻害する要因になっている、ということです。

………
と、ここまで述べてみたんですが、上に記した私の個人的な見解に関しましては、あまりユーザーの方に同意を得られないかも知れませんね。むしろシナリオは今までで一番良かった、という意見が多数ですので。以下に述べる事柄に関しましても、少数派の一部ファンの戯言と取って読み進めて頂ければ幸いです。
………

鬼畜王ランス、のイベント進行前の目印となるあの拠点の点滅、を思い起こしていただきたいのですが、やはりゲームプレイにおいてテンポというものは非常に大切でしょう。それを維持するためには、敢えて描写し尽くしたい部分、掘り下げたい部分、を省くことも必要なのではないかと。いちいち、読者であるユーザーに登場人物である各キャラクタの一人称への没入を強いる、という今回のランス10のシナリオテキストは、視点の絶えざる転換、という地域制圧型の外形を含む「大戦争RPG」にはフィットしない、というのが、このゲームのストーリーに対して抱いた私なりの一つの結論です。

3 自由度と戦闘バランス

で、今上に述べましたような事柄は、何もストーリーに対して分析可能なわけではなく、他のあらゆる要素に対しても言える、というのが私個人の見解です。具体的に申しますと、特にゲームの根幹を為すべき戦闘パートに関しても、キャラクタのカードのヴァリエーションによる収集要素、など、一見繰り広げられた世界が広大であるように見えて、実際にプレイヤー側が選択できる戦術の幅は極めて狭い、というようなことです。

問題を明確化するために、ここで鬼畜王ランスや戦国ランスが持っていたプレイヤーに許される戦略や戦術の幅を、「自由度」ということにしましょう。もう少し詳細に言うと、この自由度とは、どんなに些細な事柄であれ、ゲーム内でプレイヤーが取った選択に対して、何らかの形でフィードバックが起こること、だと筆者は考えます。

この、自由度の終着点は当然のことながらルート分岐、ということになるのでしょうが、
そこに至る過程の中ですらも、いくつもの細かな選択の幅が散りばめられている(もしくはプレイヤーにそう錯覚させる)、ことこそが、ゲームの面白さを示す一つの指標としての自由度、をプレイヤー側に感じさせるのに必要な配慮でしょう。

その観点から見ると、今回のランス10はどうでしょう。実力差の明確な巨大なボスを倒すのに、「毒」や「呪い」を使わないでいられるユーザーがどれほどいるのでしょうか。プレイヤー側の好みで、道中の雑魚を手際よく倒すのには数多のキャラクタが用いられるけれど、結果、最終的にボスに役立つのは毒と回復、防御だけというのでは、それを本当に面白い、とは言えないのではないでしょうか。

やはりシステムとして優れている、と言われるためには、プレイヤーに許される解の幅、はもう少し広くても良かったのではないか、というのが、戦闘パートへの私の率直な感想です。

いや、君は自由度自由度、というけれど、これは「RPG」なのだよ、という意見は、私自身素直に受け入れるべきものだと思います。勿論このゲームがシミュレータでもサンドボックスでもないことは事実です。ですが、どうしても鬼畜王ランス、戦国ランス、という作品をシリーズ中に持つランスというタイトルに対しては、この、プレイヤー側の自由度を求めてしまうユーザーが多数いるのも、一方で事実ではないでしょうか。そして、私自身が今回のランス10を七周ほど周回プレイするに当たり、自分自身の脳内に(無意識で)暗示のようにかけていた言葉が、これは「地域制圧型の」RPGなのだということです。

現時点で私は、実績として提示されている14個のエンディングの内8個を自力でクリアし、真エンドに到達し、この記事を書いています。そこで得た結論とは、上に述べたプレイ中の私自身の信念とは裏腹に、「このゲームは地域制圧型ではなかった」、ということです。

…………
以下はさらなるネタバレを含みますので、再度、それを許容する方のみで、と警告させて頂きます。

繰り返しになりますが、このゲームには複数エンドによって担保されているように見えるプレイヤー側の自由度が、実際にはほとんどないんですね。ここで、こういう選択をしたからその結果こうなってしまった、というような、選択と結末の結びつきが薄い、とでも言ったら良いんでしょうか。勿論、徐々にCPを貯めて少しずつやれることを覚えていく、という過程は神ゲー、というのにふさわしいほどのめり込めるものではあるんですが、そのプレイの習熟、が第一章においてグッドエンドに結びつくことは100%無い。

この点は非常に悲しいですよね。あれほど広大に打ち広げられたように見える大陸は、完全な「一本道の」RPGとしての第二章へ到達するための諸条件を探し出すための前振りに過ぎない。

正直、その4条件を探し出すまでの過程では私自身このゲームを「はじめの段階でクソゲーに見えるだけの神ゲー」だと思っていたんですが、第二章をプレイし進めるに当たり、「かつてのアリスソフトの神ゲーを思い返すための、神ゲーのような外観を持った糞ゲー」であることを確信しました。

プレイヤーの側はそういった意味で、あたかも魔血魂の濁流の中に全ての魔王の存在を認めるように、今までのランス作品に対する印象を自分のプレイ履歴に合わせて呼び覚ましている、と言えるでしょう。(キャラクタやストーリーは、その思い出補正を伴って色付く)。

勿論、第二章のストーリー自体は十分に練られていて非常に面白い、とは思いますが、わたしのように「地域制圧型」のゲーム群にヤラれたユーザーにとっては、やっぱりこれじゃないんだよなあ、という感慨をひたすら呼び起こしてやまないわけです。翻して言うと、この、初めのプレイ段階から第二章の結末に至るまで様々にユーザーへのプレイフィーリングを変じさせるランス10というゲームのいびつな構造には、今まで発表されたナンバリングタイトルの諸特徴が凝縮されていると思います。

であればこそ、このランス10はプレイし、批評するユーザーによって全く印象の異なるゲームではあると思うのですが、少なくとも私にとっては、やはりメインライターの方がとりさんからヨイドレ・ドラゴンさんに代わられたランス8、の時点が転換点であったように思います。そこからランス1や3のリメイク、9,10というのは、やはりスタッフの方の入れ替わりも含め、時代の流れ、ニーズの変遷、と言った所でしょうか。

4 ナンバリングタイトルごとの諸要素

自分はオリジナルのランス4以前のものに関しては触っては見たけれども未クリア、という軟弱者なんですが、それでもランス10に散りばめられているように見える各ナンバリングタイトルの諸要素について順不同に整理すると、


まず、ランス10の代表的なMAP風景であるすごろく風の盤面は、リメイク版のランス1当たりからのものでしょう。この辺りは、ダイスころがしさんのディレクティングによる所が大きいでしょうか。


そして、言わずもがなですが、ストーリー進行のフラグ立てによってルート分岐する、という要素は、鬼畜王、戦国ランスからのものでしょう。真エンドには第一章の大陸でたどり着けないことを除けば。


また、上述したことの繰り返しになりますが、シナリオテキスト自体の、各キャラクタへの一人称への没入を強いる、という描写スタイルは、ランス8以降のものでしょう。複数キャラの掛け合い、わちゃわちゃ感を出す、というのも、他方でキャラが「カード化」されてしまうランス8に見られる特徴です。


これは賛否あるかも知れませんが、完全な部隊編成のランダム化、という意味では、ランス10のカード取得の仕組みは、ランス5D的と言えるかも知れません。あのゲームはランダム性を目指した、とTADAさんが仰っていた記憶があるので。


というより、この点はランス6の残した大きな功績と言えるかも知れないのですが、RPG上のパーティー編成に、大人数を構成する仕組みを与える、というシステムそのものが、ランスシリーズの一つの大きな特徴とも云えます。他ゲー、特に洋ゲーでは、4人から6人がマックスでそれ以外は待機要因、ということが多くありますが、ランス6では行動力システムを使ってこの点をうまく解消しています。そして、大人数をうまく回さなくてはいけないという要素が、ランス8,10にも生かされていることは疑いようがないでしょう。


プレイヤー側の自由度を極限まで排除した、ランス9としての第二章

と、かなりネガティブな書き方をしてしまったんですが、この第二章に関しても、「ヒロイン(フレンド)選択型」的な要素があるらしいですね。いや、自分は未プレイなんですが……。第二章の、あの、どれをとっても結末は全く変わらない、ということを予め示したような選択肢の提示こそが、極めてランス9的であり、ランス10中に随所に見られる「一本道感」を象徴するようなシーンであると思われます。

他方で、引き継いでほしかったのに、引き継がれなかった要素、もある。以下は、もっとこうして欲しかった、という私のようなファンにありがちな愚かな嘆きの一覧です。

1 地域制圧型、的な内政や外交要素

マジ、くり返しすいません、と言った感じなんですが、確か戦国ランスは、フェイズ中の選択肢を選ぶに当たり、キャラの能力の合算で幾つ以上でないと行動できない、というような、戦闘以外のキャラの重要性を規定する指標が、幾つかありましたよね。

今回のランス10に関しても、クエストを選択したらあとは一本道、という仕様ではなく、都市ごとのイベントとか、それこそ魔軍の侵攻を食い止めるための部隊の配置要素とか、準備クエストの段階で選べることをもっと複雑化させても良かったのではないかと思います。ストラテジー的な要素が長期的なカード集めと育成の中にしか無い、というのは、正直ツライところではありました。

2 アンチヒーローとしての、「ランス」

ちょっとこの人いい人すぎやしませんかね? 何かめちゃくちゃするけれども、最後には何故かうまくまとまっている、というか、善と悪とを割り切れない世界での「カオスマスター」としてのランスの存在が薄いように感じています。誰から彼までランス好き好き、というのではなく、マジックとアレックスに相手にされないランス、とか、蘭と早雲に相手にされないランス、志津香とかなみに軽蔑されるランスこそが、ランスっぽくて好きなんですけどね。アラインメントで例えると最早この人、カオティック~、というより、ローフル~の側の人ですね。

3 細かに散りばめられたキャラクリ要素としての「幸不幸リスト」

ランス10においてはここもやはり簡略化されていて、キャラクリ=食券イベントの回収、ということにひとまずなるのでしょうか。それでも勿論膨大な量ですが、ここで重要なのは、量の問題ではなく、それぞれの要素がストーリーに直結していないことです。

この辺りは真エンドが第一章上に無い、ということとも関わってくるのですが、プレイヤー側としては、CPボーナスで獲得できるプレイの習熟を、何らかの形で、細やかに再現できる指標がほしいですよね。その辺の立ち回りも、徹底的に省かれているのが現実です。

と、ここまで大まかに述べてきましたが、上に挙げたような点は、勿論アリスソフト様も分かった上で作品を作られているわけで、一見して、

1 ユーザー側の「自由度」を制約し、
2 モテモテのランスで、
3 実際には一本道(とその分岐)に近いストーリー上を、
キャライベントの魅力とカード回収の中毒性のために周回させる

という、ある意味で超簡略化されたゲームを、ランスシリーズの最終作品として作られたわけです。この「ゲームバランス」に関しては、私自身7周もしているわけで、ほとんど完璧と言わざるを得ないし、おそらくこれほどの中毒性を伴うゲームは洋の東西を問わず、歴史上存在しなかったかも知れない。ただ一つだけ言いたいのは、このゲームが、かつてアリスソフトの作っていたゲームの魅力を半分は保持しているかも知れないが、半分は失っているということです(少なくとも私にとっては)。

その半面を写し見るたびに、わたしは何とかそのようにして作られ続けてきたランスシリーズの結末を見たい、と思ってプレイを進めたし、またもう一方の半面を見る度に、あ、これ以降アリスソフトのゲームをプレイすることはないんだろうな、という思いに駆られもしました。

そういったランスシリーズへのある種の思い出補正リレー、は、私自身が経験したことでもあり、また他の数多のプレイヤーの方々が経験したことでもあると思います。そしてそれは、「あなたは」という二人称的な語りで綴られる第二章が用意されていた時点で、他ならぬアリスソフト様によって用意されていたことでもある。

…………
以下は、最終的な結末に対するネタバレを含みますので、第二章までクリアされた方のみの閲覧をお願い致します。(もしくはあらゆるネタバレを甘受される方のみ)。

5 ラストに見る視点の超越性

ただ、最後のイベントシーンはどうなんですかね。色々解釈の幅はあると思うんですが、
創造神、の視点を冒険者の位置においた、ということは疑いようがないでしょう。つまり、拡大解釈すると、世界の造り手、とゲームをプレイするユーザー、が、全く同じイメージを追体験できる、と規定しているわけです。

これは意識的にそうしたか、無意識でそうしたかは別として、重要なことです。本来、ゲームの造り手、とユーザー、というのは、ある種、「他者的な」存在として、切り離されてあるべきでしょう。

…………
勿論、ハニーキング様は別枠として存在していますが、楽しむためにこの世界を作った、というゲーム本来の目的の具現化であるような創造神と、それを遊ぶ我々プレイヤーの間の距離をここでは問題にしています。
…………

ユーザーというのは我儘なもので、どんなに作り手が一所懸命に作品を構築しても、ああでもない、こうでもない、と(今、私がしているように)批評を述べたり、感想を言ったりするのがある意味で当然といえば当然なのです。ですから、創造主、とプレイヤーの視点が同一化されていた、という最後のイベントシーンには、わたしはちょっとだけ違和感を覚えました(あくまで主観ですが)。

実際、鬼畜王ランスにおいては、むしろ創造神ルドラサウムというのは、最終的に敵対すべき存在であり、そこに至る過程において、プレイヤー側の自由度が最大限担保されているように見える。ですが今回は、プレイヤーと創造神が視点の同一化を予め諮られていたのです。

この点はストーリーとしては非常に面白いですが、ある意味で、このランス10というゲームがプレイヤー側に制約する自由度、という構図を、第二章の一本道に近いゲーム構成とも相俟って、極めて象徴的に表現しているシーンのように写りました。我々はそこにおいて、造り手側の意図、をゲームプレイとして追認する一人の視点人物に過ぎなかったのです。

……以上が、わたし自身のランス10に関する感想となります。諸所で垣間見られる評判を除く限り、七周も周回したのに係わらず高得点を付けない、という私の評価は、おそらくあまり一般的なものではないでしょう。(個人的にはゲームシステム周りは78点くらい、シナリオテキストを良いと思える人はそこにプラス5点、さらに、ランスシリーズへの思い出補正でプラス10点)と言った所でしょうか。

この辺りの他のプレイヤーの方との見解の相違も含めて感じたのは、やはり、世の中のニーズの変遷、ということなんでしょう。ブラウザゲーム的、と言われることも多いランス10ですが、むしろブラウザゲーの基本的な発想を初めに構築したのが他ならぬアリスソフト、とも言えるわけで、かなり逆説的な言い回しにはなりますが、自分たちの生み出したものに回収されていく感じ、かつて持っていた諸要素をある意味でマーケティング的に削ぎ落とさざるを得ない感じ、は、印象として強く受け止めました。

そして、そんなことをいちいち指摘しなくては気がすまない私、自身が間違いなく旧世代なわけで、そんな世代交代の必要性を、第二章をプレイしながらひしひしと感じたものであります。語り手として呼びかけられるあなた、は一本道の冒険をこそ強いられるのであり、複数の分岐を考慮して作られたストーリーはもう十数年前の話でしか無い。そんな、プレイヤー側の世代交代を強く要求する作品、それが私にとってのランス10です。

…………
(とは言いましても、黄金像の件、とかまだあるわけで、記事執筆時で未発見の情報については考慮しておりません。尤も、セラクロラスとか居ますし、第二章的なストーリーを複数挟んで、今度はそれを条件として第一章に戻り、完全トゥルーエンドとか追加ディスクとしてあっても面白い、とは思うんですけどね、……まあ、ないんでしょうね。)

あと、最後に取って付けたようではありますが、音楽と背景イラストは素晴らしかったです。特にヘルマンに降り注ぐ光柱の描写や、美樹ちゃん捜索時の雲の描写など。戦況報告の時の音楽もこれ以上無いくらいに気分を駆り立てられますね。全体として批判的な内容のことばかり書いてしまったようではありますが、この作品が色んな意味で記念碑的なゲームになることは疑いようがないように思われます。全てのスタッフの皆様、今までランス作品を作って下さってありがとうございました。

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